STORY

EPISODE1・2 小説

chapter1-1


そこは古いレンガ造りの建物が並ぶ裏通りだった。

連日降り続く霧のような雨が、普段は灰色の石畳を黒く濡らしている。

道の脇ではオルガン奏者が道行く人々に向けて手回しオルガンを弾き、その横ではパイ売りの女が道行く人に声を掛ける。売っているのはミートパイだろう。店の女はチキンミートだと言っているが、実際はどうだか分からない。

時は産業革命真っ只中。

正体不明のミートパイを片手に、大勢の日雇い労働者たちは工業地区へ向かう。

「おい、聞いたか? 先月行方をくらました酒屋のダニー、どうやら例の病気にやられちまったってよ」

「例のって……アレか?」

「ああ。真っ黒い繭になっちまったのを常連が見たってさ」

そんな話が街のそこかしこで聞こえてくる。

様々な人々が雑多に行き交う下町は、誰もが知り合いで、誰もが他人だ。



そんな街の片隅に……その店はあった。

小さなパブのようだが、一見ではそれとは分からない外観である。

割れかけたレンガの壁と、シンプルな木製扉。扉の脇には古びたランプ。

その下に置かれたメニューの看板で、ようやくそこがパブだと分かる程度で、まるで繁盛したくないと言っているような雰囲気だ。

今、その看板の前で、一人の少女が不安げに佇んでいる。

「……【Byron's Pub‐Mistilteinn‐】?」

少女は看板を見て首を傾げた。そして手に持っているメモを見て、困惑の表情を浮かべる。

「住所は此処のはずだけど……」

そう呟いて辺りを見渡す。窓から覗いてみても店内は薄暗く、中の様子は伺えない。

彼女は躊躇うように店の前を行ったり来たりしていたが、暫くして意を決したようにその扉を開いた。


―――――ギイ、と軋んだ扉の音が、まるで運命の歯車を回してしまったかのような錯覚を起こさせる。


カランと鳴った玄関のベルの下、少女は恐る恐るパブの中を覗き込むと、「あの……」と小さな声で呼びかけた。すると。

「はぁーい! いらっしゃいませー! どうぞ奥の席へ~~!」

「きゃっ!」

突然、扉が内側から勢いよく開いた。

その拍子、握っていたドアノブに引っ張られるようにして、少女は店内に入ってしまう。

よろけた彼女の背中を、柔らかな手が支えた。ふわりと漂ったのは、オレンジの爽やかな香り。

「どうぞどうぞ! お一人ですか? わあ、可愛いお嬢さん! 運が良いね! 実はたった今タルトが焼き上がったところなんだよ! あ、ドリンクはどうする?」

「え? あ? ええ?」

彼女を出迎えたのは鳥打帽をかぶった小柄な少年だった。年の頃は14、15。人懐こい笑顔と軽快なステップで、少女をカウンターの奥へと案内してゆく。

「え、あの、すいません、私、その」

あれよあれよとカウンターに座らされた少女は、何か言おうと口を開きかけたが。

「ボクのお勧めのドリンクはねえ、レモンジンジャーエールかな! 甘くて飲みやすいよ!」

怒涛のような少年の勢いに負けて「は、はい」と頷いてしまう。

「タルトとレモンジンジャーエールね! かしこまりましたぁ! バイロン、オーダーだよ~~」

少年は上半身をポンとカウンターに乗せて、向かいに居るバーテンダーに声を掛けた。ところが。

「かしこまりましたぁ、じゃねえだろ、バカ!」

少年に返されたのはオーダー了承の返事ではなく、脳天に振り下ろされたチョップであった。

容赦なく繰り出された一撃を食らい、にゃっ! と悲鳴をあげた少年は、カウンターに突っ伏してようやくその動きを止めた。

すると今度は、バイロンと呼ばれた褐色の肌のバーテンダーが、少女に「ごめんな」と話しかけて来た。

「びっくりしたろ? こいつ、人の話聞かねえからさ。今、メニュー出すから。今は他のお客さんもいないし、ゆっくり決めてくれ」

「あ、いえ、私」

カウンターの脇からメニュー表を出そうとするバーテンダーを見て、少女は慌てて首を振った。

「ごめんなさい、私、お客さんじゃないんです」

「え?」

「道に迷ってここに来てしまって……。すいません……」

「道に迷った? そっか、この辺は似たような建物ばっかりだからな。どこに行きたかったんだ? 知ってる店なら案内出来るから遠慮なく聞いてくれよ」

客ではないと言われても、バーテンダーに機嫌を損ねた様子はない。

優しい彼の微笑みに、少女は幾分ホッとすると、「その、探偵事務所を探していて……」と、握り締めていたメモを広げて見せた。

「道を教えてくださった方のメモでは、番地は此処なんですけど……見つからないんです」

「アウルのお客さんだったの!?」

すると突如、カウンターに突っ伏していた少年がガバリと復活した。

「やったー! 依頼人だ――――!!」

少年は諸手を挙げて飛び跳ねると、先刻とは比べものにならない程瞳を輝かせ、「いらっしゃいませぇ!」と少女の手を握り締めた。

「うるせえ」

「みぎゃっ!」

だが、再び繰り出されたバーテンダーのチョップ。少年はまたカウンターに沈んだ。

「そっか、お嬢さん、アウルのお客さんか」

チョップを繰り出した手を振りながら、バーテンダーはカウンターの外に出ると、店の奥を指差した。

「あっちだ」

「え?」

彼が指差した方には、ランプの影に隠れるようにして扉があった。

「分かりにくくてごめんな。アウルの事務所は紹介者が居ないとわからないようになってるから」

そう言って彼はその扉を開けると、振り返って少女を促す。扉の向こうには上に続く階段があった。

「貴女のお探しの探偵はこの上だ」

「上?」

ぽかんと階段を見つめる少女は、何を言われたのか分からないという様子で立ち竦む。

「ようこそ、依頼人さん!」

「あっ」

すると、いつの間にか隣に立っていた少年が彼女の手を引いた。引っ張られるようにして、少女は階段を昇ってゆく。

昇った先にはチョコレート色の木製の扉があった。扉には看板が付けてあり、シンプルなレタリング文字で【Owl detective office】と書かれていた。

驚く少女に、少年が「さあノックして」と声を掛ける。

「君が抱える謎を白紙にしてあげる」

「白紙……?」

彼の囁きに少女はゴクリと息を飲み、目の前の扉を数秒見つめると、細い指を握り締めて、扉をノックした。



■■■■■■■■■■




「……予告状?」

「はい」

すみれ色の瞳に見つめられて、少女……アナスタシアは身を竦ませて頷いた。

一人掛けのソファに腰掛けた彼女の前には、同じ一人掛けのソファに腰を下ろす探偵が居る。

金色の髪、金縁のモノクル。細身のシャツにフォレストグリーンのジレベストを着た彼は、アナスタシアが想像していたよりもずっと若い探偵だった。歳は二十歳……いや、もっと若いかもしれない。

この青年こそがこの事務所の所長であり、彼女の探していた探偵その人だった。


「拝見しましょう」

「え?」

探偵が手を差し出してきたのでアナスタシアは戸惑ったが、「持ってきているんでしょう? 予告状」と言われてはっとした。慌ててポシェットの中から一枚のカードを取り出し、それを彼に渡す。

「これは……」

渡されたカードを見るなり、探偵は片方の眉をぴくッと引き攣らせた。予告状の文面を読むまでもなく、カードの裏に印刷された文様を見て何かに気付く。

その時だ。

「―――お察しの通り、怪盗ヒュド・ルーからの予告状ですわ」

出入り口の方から声がした。

探偵がそちらへ視線を向けると、事務所の扉が開いていて、そこにはスコットランドヤードの制服を着た女性が立っていた。

「彼の登場となれば、あなたの出番でしょう?」

「リッツ……」

そう言って歩み寄って来る彼女に、探偵は溜息を吐く。

「俺は別にヒュド・ルー専門ってわけじゃないんだが?」

「あら、じゃあ、他の探偵にお任せしてもいいとおっしゃるの? 貴方はもう既に、ヒュド・ルーの【宿敵】ですのよ?」

そう言い、彼女は机の上に無造作に置かれている新聞を指差した。その新聞の見出しには【ヒュド・ルー、初の敗北! 怪盗の計画を阻んだのは無名の探偵!】という文字が大きく印刷されていた。

「でしょう?」

「………」

リッツと呼ばれた警察官の少女は、探偵が黙ったことに気を良くしたのか、ふふっと嬉しそうに肩を揺らした。

「てことは、彼女にウチへの地図を渡したのはリッツだったんだ?」

すると、探偵の代わりに先程の少年が口を開いた。ソファの背もたれに肘を着いてリッツを見ている。

「ええ、さっきこの事務所への道を聞かれて」

「なんだ。だったら店まで案内してあげたら良かったのに。リッツが一緒に来てくれてたら、ボク、パブのお客さんだって勘違いしなかったよ?」

気が利かないんだから~と、チョップを食らった頭を擦りながら言った少年に、リッツはわかりやすくムッとする。

「だってしょうがないでしょう! 此処に来る途中迷子がいたの! 警察官としてほっとけないじゃない!」

「警察官“見習い"でしょ?」

「黙りなさい。ホントあなたってイヤなヤツね、ニック!」

「事実を言っただけだも~~~ん」

「はいはい二人とも落ち着け」

ニックと呼ばれた少年とリッツが言い合いを始めかけたところで、ストップをかけたのは、階下のパブのバーテンダー、バイロンだ。

「お前らはこっちでおやつでも食べてろ。ほら、バイロンお兄さんの特製オレンジタルトだ」

彼は優雅に掲げたトレイの上のタルトケーキを二人に見せつけ、部屋の隅にあるテーブルへ誘導してゆく。タルトを見せられたニックとリッツは目の色を変え、子犬よろしくバイロンにまとわりついて速やかに退場した。

そんな周りの様子など気にも留めず、探偵は予告状を眺めている。

「『月無夜、真紅の宝石を頂きに参上致します』か」

彼は予告状の書かれた文面を読むと、アナスタシアに「真紅の宝石とは?」と尋ねた。

「マクリーチ家……私の家に古くから伝わる宝石です。とても珍しいもので、普段は絶対に外に出さないのですが、近く、大勢の人の前で披露するパーティがあるんです」

「そこを狙って予告状が届いたわけか」

「はい……その所為でお父様が元気をなくしてしまって……」

「パーティを中止にすることは?」

「出来ないわ! そんなこと!」

探偵は手っ取り早い解決方法を提案したが、アナスタシアは即座に却下した。

「中止になんてなったら……どれだけ悲しむか……」

そして膝の上の手をぎゅっと握り締め、悲しげに俯いてしまう。

「パーティは絶対に中止出来ません。どうか、助けて頂けませんか? 怪盗から宝石を守って下さい!」

「………」

「アウルさんはあのヒュド・ルーを追い払った唯一の探偵さんだと新聞で拝見しました! 助けて欲しいんです!」

「…………」

「わ、私がお支払い出来る報酬では足りないかも知れませんが……」

「…………」

アナスタシアは懇願したが、探偵は予告状を見つめたまま微動だにしない。

「……あの……?」

返事をしない彼に、アナスタシアは顔色をうかがうように視線を上げた。

「だ、駄目でしょうか……?」

落胆の色を深くして、最後にそう尋ねる。

するとその時、「とりあえず一息つきましょう」と声がして、ふわりとあたたかな香りが彼女を包んだ。ラベンダーの香りだ。そして目の前に差し出されたのは、白いカップにそそがれた一杯のハーブティー。

「怪盗から予告状なんて、怖かったでしょう。でも、もう大丈夫ですよ」

慰めるように言い、カップを差し出して来たのは燕尾服の青年だった。ブルネットに気弱そうな垂れ眉。眼差しの穏やかな青年執事だ。

「落ち着きますよ。どうぞ」

「あ、ありがとう……」

今まで全く存在を感じさせなかった彼に驚きつつも、アナスタシアはカップを受け取り、一口飲んだ。

「美味しい……!」

一口飲んで驚く。それは予想以上に芳醇なハーブティーだった。漂う花の香りに、強張っていた彼女の肩からゆるりと力が抜け、不安で沈んでいた心が浮き上がった気がした。

「うちのメイドが淹れるお茶より美味しいわ」

彼女が言うと、青年はニコリと微笑み、足音もたてず離れてゆく。

その代わり、タルトをかじりながらニックが戻って来た。彼は探偵の顔を覗き込んで「あ、これ、どっか行っちゃってる」と呟いた。探偵の顔の前でヒラヒラと手を振ったり変な顔をしたりしてみせるが、やはり探偵は反応しない。ニックは早々に諦めて、アナスタシアの方を見た。

「アウルってば、一度考え込むと長いからさ。ちょっとだけ待っててくれる?」

「え、あ、はい……?」

「その代わり、退屈しないようにボクがお話を聞かせてしんぜよ~う!」

そしてくるりとターンしたかと思うと、エヘンと胸を張った。

「お話?」

「そう! 名探偵アウルと、有能なる相棒ハンサム&キュートなニック君が、如何にしてヒュド・ルーを追い払ったのか! 此処でしか語られない活躍奇譚をとくとね!」

じゃじゃーん! と効果音を付け、大きな身振り手振りで話し始めるニック。

「あれは、この事務所にへっぽこ見習い警察官がやって来た日のことだったよ……」

「ちょっと! へっぽこって誰のこと!?」

部屋の隅でリッツが叫んだが、彼はお構いなしに語り始めたのだった。