STORY

EPISODE4 小説

chapter3-3


「僕は何もやってない!」

叫んだのはジャックだった。

「君じゃなければ誰だと言うんだ?」

「知りませんよ! 扉を開けたらあの人は既に倒れてたんだ! 僕が声を掛けた時、既に意識はなかった!」

「君が乱暴して昏倒させたんじゃないのか?」

「何故僕がそんなことをする必要があるんです! 僕が彼に乱暴する理由がない!」

そして彼と言い争っているのはカインだ。

先刻倒れていた使用人のことで、カインがジャックを詰めているのだ。

「理由ならあるだろう。あの使用人は普段からエリザを不埒な目で見ていたからな。そうだろう?」

カインはそう言うと、先刻礼拝堂の隅に蹲っていた使用人の女性を見て尋ねた。

「え、ええ、……あ、あの男は、エリザ様に懸想をしていました」

女性はおどおどとした態度で頷く。

「ほらみろ。お前は自分のフィアンセに言い寄る使用人の態度が我慢ならなかったんだ。それであいつに乱暴したんだろう?」

カインは使用人の昏倒はジャックが原因だと決めつけている。

「僕は彼がエリザに懸想していたなんて知りませんでしたよ。言いがかりはよしてください」

「そうです、おじさま。ジャックは使用人に乱暴するような人じゃありません!」

ジャックは必死で否定し、その横にいるエリザも彼を庇っている。

「そんなことは分からんだろう。人は誰しも裏の顔を持っているからな。それに君は東洋の古武術を習っているそうじゃないか。その技を使えば人を気絶させることも容易いんじゃないのか?」

カインはフンと鼻で笑うと、再び使用人の女性の方を見た。

「お前は一部始終を見ていたな? ジャックがあの男を殴り飛ばす所を見たんじゃないのか?」

「えっ?」

カインに問いかけられた女性は驚いて、ますます顔色を青くすると。

「わ、わたし……」

ぶるぶると震えて俯いてしまう。

「怖がらなくてもいい。見た事をありのままに話せばいい」

「……っ」

カインは優しく問いかけるが、女性はぎゅっと身を竦めた。逡巡するように目が泳いでいる。

「み、……見……」

震える唇を開く。だが、彼女が何かを言う前に。

「使用人の彼に外傷はなかった。乱暴された形跡もない。ジャック君があの男に何かをしたと決めつけるのは早計だな」

誰かが口を挟んだ。

トリスタンだ。倒れた使用人の状態を見ていた彼は「彼の意識が戻らないのは、そんな単純なものではないよ」と言い、カインたちの方へ歩み寄る。

「トリスタン卿。貴方は高名な錬金術師だが、医者ではないはずだ」

カインは口を出すなとトリスタンを睨むが、トリスタンは飄々として「確かに私は医者ではないが、君も医者ではないだろう」と鋭い視線を返す。

「医学で言えば、むしろジャック君が専門だ。彼をこんな所に引き止めている場合ではない。今すぐ彼に診察させるべきだ」

そのトリスタンの言葉で、言い争いを中断した一行は礼拝堂横の小部屋に意識を失っている使用人の男を運び込んだ。

男は気付け薬を投与しても目を覚まさない。ジャックが目蓋を指で開くと、その瞳孔は大きく開いている。

「……おかしい。脈はあるが、これはまるで……」

暫くして男の診察終えたジャックは「もっと大きな設備でないと、発症理由の解明は難しいな」と唸った。

その言葉を聞いて、アウルがジャックに駆け寄った。

「ジャック。実はエリーもアービー氏の部屋で倒れたんだ。頼む、診てやってくれないか。何か関連があるかもしれない」

「妹さんが? 勿論だ。今すぐ診るよ」

アウルに手を引かれ、ジャックは駆け出して行く。

「おいジャック! 話は終わってないぞ!」

カインはそれを引き止めようとするが、トリスタンがそれを遮った。

「お静かに。話なら私の息子が直接ジャック君に聞くよ。彼は若いが優秀な探偵だ。事件性があるとしても、警察に友達がいるようだし、任せていいだろう」

「探偵……?」

「そう、まだ駆け出しで都心でしか名は売れてないがね。あれでも推理の専門家だ。仕事は専門家に任せた方がいい。そうだろう?」

語りかけるトリスタンの口調はどこまでも柔らかい。だが、その微笑みの中に潜む刃は鋭い。

「おかしな動きはしないことだ、ミスター・カイン」

トリスタンは杖の先でカインの心臓の辺りを押し、「欲を出した獅子が山羊の角で突かれることもある」と囁く。

心臓を突き刺すような声にカインはゾッとすると、反論することも出来ず息を飲んだ。

トリスタンはくるりと踵を返し、客室へ戻ってゆく。扉の前ではラルフとハンナが両側に立っていた。カインに冷たい視線を注ぐ二人に、カインはチッと舌打ちすると、彼も小部屋から出て行った。


二人を見送ったエリザは唇を噛み、そして「……私がしっかりしなくちゃ……」と、己の細い肩をぎゅっと抱いた。





「ジャック、どうだ?」

「うん、……これは」

エリーはあてがわれた部屋に運び込まれていた。中では、アウルとジャックがソファを囲むようにして立って、エリーを見下ろしている。

ソファに座るエリーは、目蓋は半分ほど開いて意識はあるようだが……その目は虚ろだ。

「エリーさん? 大丈夫ですか? 私の声が聞こえます?」

アナスタシアも必死で呼びかけるが、反応はない。明らかに様子がおかしい。

だがジャックはエリーの状態を診察してすぐ、「魔力酔いだな」と診断した。

「魔力酔い?」

「ああ」

聞き返したアウルにジャックは頷くと、アナスタシアを見て「ナーシャ、水を持ってきてくれるかな。コップ一杯でいい。エリーに薬を飲ませたいからね」と言った。

「はい、すぐに持ってきます!」

アナスタシアはぱっと駆け出してゆく。彼女と入れ違いにトリスタンが部屋に入ってきて「手伝おうか」と声を掛けた。

「そうですね、でも、手伝いならアウルの方がいいかな」

「俺?」

「そう、彼女が倒れたのは旦那様の書斎だろ? だとしたら君が適任だ。僕が取り出すから、受け止めて欲しい」

「取り出す?」

取り出すって何を? とアウルが聞き返そうとしたところで、ジャックは「見れば分かるよ」と言い、ポケットから薄い手袋を取り出して装着すると、ぱちんと指を鳴らした。するとその指先に白い術式が現れた。

「……!?」

目を見張るアウル。ジャックの指先に現れたのは、見た事のない錬金術の術式だった。ジャックはエリーの額に術式を押し当て、何かを唱える。極めて小さな詠唱にアウルが耳を澄ます間もなく、エリーの周りにだけ風が起こった。エリーのローブの裾が舞い上がったところですぐに風が止み、彼女の額に触れていたジャックの手が何かを握り締める。

「よいしょ」

そう言ってジャックがその手を引くと、赤い『もや』がエリーの額から引きずり出されるのが見えた。かと思うと、ジャックはそれを両手で丸めて。

「はい、アウル」

「え?」

「君とおなじ属性のものだ。君なら消化するのは容易い」

アウルに手渡した。

突然正体の分からないものを渡されて、アウルは面食らったが。

「……これ、魔力の塊か?」

塊の正体はすぐに分かった。それは普段アウルが体内でコントロールしているものによく似ていたからだ。

「そう。旦那様の書斎で倒れたなら、彼女が浴びた魔力はまず間違いなく火の属性だ。彼女はあの部屋にあった魔力を大量に浴びて酔ってしまったんだよ。アウル、君は火とか太陽属性の錬金術が得意なんだろ? なら、それは君の栄養になっても毒にはならないものだから安心してくれ」

「何故、俺の属性が分かったんだ?」

「僕は医者だよ。診断は得意だ。さあ、はやく」

「……」

平然と言うジャックにアウルは瞠目したが、しかし手の中の塊を何処かに放り投げるわけにも行かず、手の中で押し潰してゆく。じゅわ、と容易く消えたそれに、ジャックは「すごいな」と感心して手を叩いた。

「いや、凄いのは君だろ、ジャック。体内に入り込んだ魔力を取り出せるなんて俺には出来ない。君も錬金術師だったのか」

「端くれだよ。錬金術師としては甘めに採点しても中の下ってとこ。マクリーチ家の道具を使ってやっとの半人前だ。この手袋には随分助けられているんだよ。エリザが刺繍してくれたんだ。僕の助けになればって」

照れて頬を掻いたジャックは、先刻手にはめた手袋をアウルに見せた。

手袋の甲の辺りには、白い糸の刺繍が施されていた。それは医者が好んで使う『アスクレピオスの杖』をモチーフにした模様だったが、よく見ると、細かな部分は医療系の術式である。

「詠唱短縮陣か」

即座に術式を解読したアウルは刺繍の正体に気付き、「流石だ」とまた感嘆を漏らした。

そんな彼の前で、エリーがぱちぱちぱちっと瞬きをした。

「……アウル?」

「エリー!」

「わたし、どうしたの……?」

エリーはぽかんとしてアウルを見上げ、辺りを見渡し、きょとんと首を傾げる。先刻の虚ろな表情が嘘のようにケロッとしている。アウルはほっと息を吐いて「大丈夫。あの部屋の空気に酔っただけだ」と言って、エリーの頭を撫でた。

その後すぐ、アナスタシアが戻ってきた。コップ一杯の水を持って戻った彼女は、意識が戻ったエリーを見て「良かった!」と喜んだ。

ジャックは「じゃあ、お薬だ」とエリーとアナスタシアに甘いドロップを渡すと、「僕らはもう一度使用人の彼の診察に戻るよ。君たちはここで良い子にしていられるかな?」と問いかけた。

「はい、此処にいます。彼も治してあげてくださいね」

「ああ、必ず治すよ」

トリスタンが「ハンナ、彼女たちにお茶を出してあげてくれ」と外に声を掛けると、いつの間にか控えていたハンナが「かしこまりました」と頭を下げた。


使用人の男が寝かされている部屋に戻ってすぐ、ジャックは「……はあ」と項垂れた。

「治すと言っても」

そしてベッドの上の使用人を見下ろして、悲しげに眉を下げた。

「手の施しようがない」

ジャックの言葉を継いで、そう断言したのはトリスタンだ。その言葉にジャックが「そうですね」と返事をしたのを見て、アウルは「助からないのか?」と尋ねた。

「エリーは魔力酔いだと言っていたが、この男が倒れた原因は違うのか?」

「うん。原因は分かってる。魂と言うべきものが抜けてしまっているんだ」

「魂が? 彼は生きてるんだろう?」

「とも、言い切れない。確かに生かそうと思えばある程度の期間は生かせる。ただし肉体のみだ。魂とは人が人である為の本能でありエネルギー源だ。三原質のひとつを失った体を、果たして『生きている』と言って良いのかどうかは……議論の余地があるな」

三原質とは、物質を構成している三つのものを指す。中世からそれは『水銀』『硫黄』『塩』の三種の元素だと考えられているが、錬金術ではそれを『魂』『精神』『肉体』の三つに結びつけている。魂と精神は肉体の中にあり、肉体が滅びてもその二つは不滅だ。

だが、この男は、肉体を残したまま魂が離れてしまっているとジャックは言う。

「何故そんなことに」

アウルは困惑する。てっきり二人が倒れた原因は同じだと思い込んでいたからだ。

「彼はフロスト本家に運んで入院させよう。僕の一族は皆医者だ。他の症例から発症理由を導き出せるかも知れない。あとで電報を打っておくよ」

「そうか、頼む。何か分かったら教えてくれ。俺もここで何が起こったのか知りたい」

「分かった」

ジャックは頷いて、そしてトリスタンとアウルを交互に見ると「君も謎はそのままに出来ない質か。流石トリスタン様のご子息。お父様にそっくりだね」と笑顔になる。

「え」

そっくりだと言われたアウルは、たちまち複雑な表情になると「……そうか? 全然違うと思う、が」と苦い魚を食べた猫のような声で呻いた。

「君はやはり見る目がある、ジャック君。そうかね、私とアウルは似ているかね。長く一緒にいると似ると言うしねぇ」

対照的にトリスタンは上機嫌だ。

「しかし私に師事しても錬金術の属性は似なかったね。アウルは火属性、私は地属性だ。そう言えば、アウルもよく屋敷を揺らしていたな。壁を壊したり屋根を吹き飛ばしたりね。その辺は私よりもアービー氏に似ているな。アービー氏も火属性だからかな」

「ああ、確かにそれは旦那様に似てますね。火の属性の術師は皆そんな感じなんですかね?」

そんな話を始めたトリスタンとジャックに、アウルはやめてくれとまた唸った。『火属性の困った癖』で話題を広げられるのは気まずい。

だが、アウルはふと「アービー氏もよく屋敷を揺らしていたのか?」と二人に尋ねた。

「ああ、しょっちゅうね。旦那様の実験は派手だから。僕はエリザと幼馴染で、昔からこの屋敷に出入りしてたんだけど、旦那様が実験で壁を吹っ飛ばしているのを見たのは一度や二度じゃない。屋敷が揺れるくらいの爆発音はひと月に一度は聞いたよ」

「……さっき、エリーたちの騒ぎが起こる前にも屋敷が揺れたろう。あれはなんだったんだ?」

「ああ、そう言えば揺れたね? いつものことだと思って気にもとめてなかったけど……。でも、旦那様は今具合が悪くて臥せってらっしゃるんだ。だとしたら何故揺れたんだろう。実験は行われていなかったはずだし」

「あの時、アービー氏の書斎に居たのは俺なんだ」

もしかして俺が何かしてしまったんだろうか? という意味を込めてアウルが白状すると。

「何か思い当たるようなことがあるのかね?」

聞いてきたのはトリスタンだ。

「ない、とは言えないな。妙なことが起こったんだ」

「妙なこととは?」

「二つある。一つは、アービー氏の部屋で、ランプを持った像に触ったんだ。そしたら、指に電気が走ったみたいな共鳴が起こった」

アウルが指を見せて言うと、トリスタンはすぐに「ああ、あれか」と頷いた。その事なら知っているという彼の態度にアウルが驚くと、トリスタンは「そうだな、そろそろ君にも教えておこうか。ついておいで」と部屋を出て行ってしまった。


トリスタンの部屋も、間取りはアウルの部屋と変わらず、同位置に家具が配置されていた。ただひとつ違う事は、アウルの部屋では絵画がかけられている場所に、胡桃色の無骨な焼き物が置いてある事ぐらいだった。

トリスタンはその焼き物を指差して言った。

「あれは実に面白いものだよ」

大きな壺だ。東洋の焼き物に見える。水瓶だろうか。

「……面白い?」

「おそらく、これは古代錬金術の『鍵』だ」

「古代錬金術? 鍵?」

「そうだ。私が気付いたのは偶然これに触れた時だ。君と同じように、電気のような衝撃を感じたよ。初めは驚くばかりだったが、何度か試すうちに、それが古代の錬金術の術式と私の魔力が共鳴しているからだと分かったんだ。近代の錬金術とは術式の構成が違うから、そうだと分かるのに時間がかかったし、現代術式に変換させるのに骨を折ったが――」

そう言うと、トリスタンは水瓶に近付いてそれに触れた。すると彼が触れたところが青白く発光し、複雑な文様の術式が浮かび上がった。

「ようやくここまで手懐けた。古代文字の文献を探し回って、少しずつ解析したんだ。連合王国の一部で使用されていた線文字が形状としては近い」

そして彼がもう片方の手で術式を撫でると、古代の文字が近代の術式に変換されてゆく。だが、それは半分ほど変換されたところでぴたりと止まってしまう。

「だが、まだここまでしか変換出来ていない。少しずつ読み解いてはいるが、全てを解析するにはまだ時間がかかるだろうな」

トリスタンは何でも無いことのように言うが、国家錬金術師の彼が解析出来ていないとなると、それはかなり難解な術式に違いない。おそらく今のアウルでは最初の一文字も読めないだろう。

「……もしかして、貴方がこの屋敷に何度も訪れていたのは、これを読み解く為でもあったのか?」

「まあね。古代の錬金術が目の前にあるのに、読み解かない理由なんてないだろう? 面白い数式を放っておけない君のように、私も古代の錬金術には目がないんだ。それに解析はアービー氏からのオーダーでもあったしな。彼の父親は、解読法を彼に教える前に逝去してしまったから」

古代錬金術を前に、トリスタンは楽しそうだ。そんな彼に、アウルは「気持ちは分かる。難解であればあるほど心が躍るからな」と同意する。

「だろう? 良い機会だ。私の解析経過を見ていきたまえ」

「いいけど……。その解析、ちゃんと合っているのか?」

手招きされて、アウルは水瓶に近付いてゆく。疑わしげな態度を崩さない彼だが、その足取りはいそいそと落ち着いていない。その事に気付いたジャックは、「やっぱり似たもの親子だな」と、ふふっと肩を揺らした。

そんなことを思われているなどつゆ知らず、アウルはトリスタンの手元の術式を覗き込む。難解な文字は、やはり今のアウルには読めないものだ。トリスタンは術式の端の文字を指差すと「これは表音文字と表意文字の混合だ。これを限定符指定して……現在の術式に置き換える」とアウルに説明しながら文字を組み替えてゆく。そんな彼の顔は、父ではなく、錬金術の師の顔をしている。

「で、ここから読み解くと、この単語は『生ける』となる」

「……次の単語は?」

「『星』だな。この文字がこっちに繋がって、『地の星』となる」

そう言うと、トリスタンはおもむろに詠唱を始めた。

「『生ける地の星』」

「……ん?」

「『天に送りし捷径』」

「え?」

それを聞いて、アウルはぎょっとした。その詠唱詞章には聞き覚えがあったのだ。反射的に、トリスタンの唇の動きを追って、アウルも口を開いた。

「『元素統べし四の魔術師』?」

「ん!?」

続けて言ったアウルに、今度はトリスタンが驚いた。まさかアウルが続きの語句を知っているとは思っていなかったのだろう。

「アウル、これが読めるのか?」

「え、いや」

驚いたトリスタンが尋ねると、アウルは慌てて首を横に振った。

「いや、読めない。読んだのは俺じゃなくて……」

アウルも戸惑い、ごくりと息を飲む。これはとんでもない事だと直感した。

「エリーが言ったんだ。さっき、倒れる直前に」

「エリーが? 彼女は古代の術式が読めるのか?」

「まさか。エリーはまだアルファベットの単語もままならないんだぞ?」

「そうか……いや、あの子ならあるいは……」

「え……?」

「それより続きは? 彼女はなんと言っていた?」

興奮した様子でトリスタンは術式の紋様を指差した。

「いや。途中で気を失ってしまったんだ」

「何も聞いていないのか? この先は文字と言う体系を越えて、むしろ天文の基本的洞察に近い。完全には解析出来ていないんだ」

「……いや、たしか、『そのちから』とかなんとか」

「その力……?」

「エリーを呼んでくるか? その方が手っ取り早いかもしれないぞ」

「いや待て! 此処まで来たら私が読み解きたい。答え合わせはその後だ。それまでエリーから何か聞いても言うんじゃないぞ。絶対にだ。余計なことを言ったらおやつ抜きだ、いいな、アウル」

「おい、パズルゲームをしてるんじゃないんだぞ?」

アウルは呆れて言うが、トリスタンは険しい顔で術式を睨み始めてしまう。

「……そうか、なるほど。この部分が『その力』となると……」

ぶつぶつと何かを呟いて夢中になっている彼に、アウルは「しまった」と肩を落とした。

トリスタンは一度没頭し始めると、アウル以上に集中してしまう。もはや彼の耳にアウルの声は聞こえていないだろう。

「こうなると長いぞ」

そう言うと、アウルはジャックを振り返って「放っておこう」と部屋の外を指差した。

「それにしても、国家錬金術師ってやっぱり凄いんだな。僕は子供の頃からこの屋敷に訪れていたのに、あれが錬金道具だなんて気付きもしなかったよ」

「彼は優秀過ぎるんだ。だからいつも退屈していて、面白いことを探してる。巻き込まれたら最悪だぞ」

「そうなのか?」

「そうだよ。集中した彼を正気に戻すにはシャトー・パルメクラスのヴィンテージワインが必要だ。ラルフが何か持ってきてるといいんだが」

辟易しているという態度を隠しもしないアウル。そんな彼に、ジャックは「すごく仲良しに見えるけどな、君とトリスタン様」と言った。その言葉に、アウルは「……君が眼鏡を掛けていたなら『度が合っていない』と指摘してやるとこなんだが」と眉を寄せる。

「生憎、目は良いんだよね」

「そのようだ」

「ワインならこの家にもセラーがあるよ。エリザに言って何本か見繕ってもらおうか?」

二人は部屋を出ると、礼拝堂を通り抜け、塔の出口へと向かってゆく。そうして並んで歩く二人は、まるで親友同士のように見える。


そんな二人を見ている者が居る。礼拝堂の陰に潜む、一人の男。

男はつまらなそうに溜息を吐くと「……気に入らないな」と誰にも聞こえない声で呟いた。




■■■■■■■■■■




「四の魔術師、か」

夕刻、アウルは部屋であの言葉を反芻していた。

あの後エリーに言葉の意味を尋ねたが、彼女は気を失う直前のことは全て忘れてしまっていた。自分が口にした言葉も、何を見たのかさえも覚えていなかった。

「生ける地の星……」

ベッドに仰向けに寝そべり、指で宙に文字を書く。アウルはトリスタンが解読をしていた古代の術式を真似て指を動かしている。

「地の星? 星とは空にあるものだろ? 何故『地』なんだ? それに『天に送りし捷径』って」

天に送る方法とは? 何かを……星を天に送るという意味か? アナグラム、それとも他の暗号だろうか? と、言葉の意味を考えるものの、答えは出ない。

星に関連するものや暗喩をアウルは頭の中で繰り返しながら、棚の上に目をとめる。そこには占星術の本が置いてあった。ジャックが持ってきた本だ。

そう言えばアナスタシアに渡しそびれていたなと思い出し、アウルは起き上がって本を手に取ると、表紙をめくった。星のイラストが印刷された遊び紙が可愛らしい、豪華な本だ。ブルーブラックのインクを指でなぞりながら、アウルはまた「星……」と呟き、ベッドに仰向けに転がった。すると。

「感心しないな、アウル。君って、結構浮気症なんだな?」

「!!??」

転がったアウルに覆い被さるように、誰かが顔を覗き込んできた。

部屋に一人きりだと思っていたアウルは驚いて飛び起きた―――いや、彼が驚いたのは、不敵に笑うその相手が……。

「ヒュド・ルー!!」

「やあ、こんばんは」

白と黒の仮面をつけた、あの怪盗だったからだ。

アウルは反射的にジレの下の拳銃を取り出そうとしたが、その指は空を切った。身に着けていたはずの銃がなく、戸惑っていると。

「これは僕が預かっておくよ。危ないだろ?」

ヒュド・ルーが拳銃を指に引っ掛けてゆらゆらと揺らしていた。

「返せ!」

アウルは反射的にヒュド・ルーに手を伸ばした。拳銃を取り返そうとする……ように見せかけて、その手は拳銃を通り越し、ヒュド・ルーの頬に拳を繰り出した。鋭いパンチはヒュド・ルーの顔面を的確に狙っていたが。

「ッと、あぶない」

ヒュド・ルーはそれを紙一重で躱した。アウルの拳はヒュド・ルーの髪をかすめて空振る。

だがアウルは腕を振り抜いた勢いで体を捩ると、全身を回転させてベッドから飛び降り、枕を跨いで立っているヒュド・ルーに向かって身構えた。

「何しに来た!」

間髪を入れず床を蹴って跳び上がり、間合いを詰め、再び拳を繰り出した。ひゅっと空を切って突き出された拳は、なんの躊躇もなくヒュド・ルーの眉間を狙う。

「愚問だな!」

それも紙一重で躱し、ヒュド・ルーは言う。

「君は確信していたはずだ! 今夜、僕がここに現れると!」

「ああ、してたさ。だがまだ夜じゃないぞ怪盗! まさか、わざわざ捕まりに来たのか!?」

パンチを躱されたアウルは、その勢いを殺さず体を捩り、今度は脚を振り上げた。

「はは、驚いたな。君、こういう戦い方も出来るんだ?」

振り上げた脚は相手の胸を狙っている。後ろに飛び退いてベッドから飛び降りるヒュド・ルー。キックを躱されたアウルは足を下ろすと、すかさず一歩前に踏み込んで彼を追い、今度は逆の脚を振り上げた。

「うちの大家が護身術くらいは身につけろと言うんでな!」

爪先はヒュド・ルーの肩を狙う。

「―――……成程、『大家』ね?」

ヒュド・ルーは納得し、キックを躱すと思いきや、腕で受け止めた。

「この体術なら知ってる。昔から傭兵が戦場で好んで使用していた技だ。敵を殺すんじゃなく、気絶させて動きを止める事に特化している」

そしてすかさず受けた脚を弾き返す。

「優しいね。けど、付け焼き刃で扱えるものじゃない。中途半端な護身術はかえって危険だ」

脚を押し返されたアウルはバランスを崩してベッドから落ちた。なんとか床に着地したものの、よろけてしゃがみ込む。その隙を見逃さず、ヒュド・ルーは彼のシャツの襟を掴んで動きを止め、銃口を向ける。だが、アウルは怯むことなく思いっきり頭を引くと、ぐっと床を踏んで。

「そうさ、だから……!」

躊躇なく、己の額をヒュド・ルーの額に食らわせた。ゴンッッ! と鈍い音が部屋に響く。

「いッッッたぁ――――!!!!」

頭突きには警戒していなかったヒュド・ルーは、それを思いっきり食らい、悲鳴をあげた。

「悪いな、付け焼き刃だから手加減が出来ないんだ」

唇の端を吊り上げた彼を見たヒュド・ルーは「……存外好戦的ってわけか」と、彼から手を放し、大きく後退った。

「君はもっと紳士だと思ってたけど?」

「その言葉、そっくりそのまま返してやる。無防備な相手の寝込みを襲う怪盗が紳士ぶるな」

言い合いながら、アウルは一歩ヒュド・ルーに近付くと、手を伸ばし「俺の銃を返せ。痛い目に遭うぞ」と唸った。

「強気だね。僕が撃てないとでも思ってるのか?」

だがヒュド・ルーはまた銃を構える。

そんな彼にアウルは「そうじゃない」と首を振った。

「噛みつかれるぞ」

「は?」

「3、2、1」

そして急にカウントを始めたかと思うと。

「……ッ熱っつ!!」

じゅう、と音を立ててヒュド・ルーの手袋が焦げた。驚いた彼は咄嗟に銃を放り投げる。床に転がった銃は、グリップの辺りが真っ赤になるほど熱を帯びていた。まるで火の中にくべられたかのようだ。ヒュド・ルーはそれを見下ろし、「契約銃か!」と唸る。

「そうだ。俺が許可した以外の奴が触れると、拒絶反応を起こす。火傷しなかったか?」

「……厄介な錬金道具だな」

「言う前に盗むのが悪い」

アウルが拾い上げると、銃はさっきまでの反応が嘘のように元の姿を取り戻した。その銃身はあっと言う間に冷えている。

焦げた手袋を振り、ヒュド・ルーは「持ち主に似て、嫌味な銃だ」と肩を落とした。

アウルはそんな彼に銃口を向けると、改めて「何しに来た」と尋ねた。

「まさか夜這いに来たわけじゃないんだろ?」

ヒュド・ルーは両手を挙げ、伏せていた顔を上げる。すると先ほどのコミカルさは消え、値踏みする様な冷たい目がアウルを捉えた。

「呑気に古代文字解析をしてる姿が滑稽だったんでね、ついお節介したくなったのさ」

「わざわざ嫌味を言いに来たのか?」

「君はこの屋敷にちりばめられた錬金術の謎に気を取られて、物事の本質に気付いていない。それに、僕だって、また主役を奪われるのは不本意だ」

「……本質、か」

アウルは先日の列車事件のことを思い出す。ヒュド・ルーの犯行予告の影で起こったもう一つの凄惨な殺人事件を。

まさか、また何か起こるって言うんじゃないんだろうな? という目でヒュド・ルーを見ると、怪盗は「一時休戦としないか?」と提案して来た。

「休戦だと?」

「そう。一人で動いても良かったんだけど、分が悪い。なんせこの屋敷には、都合の悪い客がもう一人いる」

「………トリスタンのことか?」

その名前が出た瞬間、ヒュド・ルーは反応した。

「そう、国家錬金術師トリスタン。まさか『幽閉の貴紳』が君の父親とはね。驚いたよ。戦時中、絶対に敵方の逃走を許さなかった最強の檻だ」

「その名前を知っているなら話は早い。もう君は逃げられない。トリスタンからは誰も逃げられないんだ」

「ま、それについては後々考える事にするよ。それよりも見て欲しいものがあるんだ」

そう言って、ヒュド・ルーは一枚の紙を取り出した。

「カインって奴の部屋にあったものだ」

それをアウルに向かって差し出す。

「カインの部屋に? おい、まさか盗んだのか?」

「盗んでない。僕は予告したものしか盗まない。これは気付いたら僕の手袋に勝手にくっついて来ただけ」

「……勝手に?」

「そういう事もあるだろ?」

「………」

「なあ、早く見てくれ。この屋敷には秘密がある。これはこの屋敷の設計図だ。屋敷というか、ベルクフリート部分のみだけどね」

紙に描かれていたのは、見覚えのある建物の内部構造だ。

「設計図。確かにそのようだな? 随分古いがいつ頃のものだ?」

「下の方に、覚え書きのようなものがあるだろ。比較的新しいメモだ。ドイツ語で記してある。『生ける地の星』―――—」

「!!」

その言葉にはっとして、アウルは覚え書きをなぞった。

「『天に送りし捷径 元素統べし四の魔術師』……」

書いてあるのはあの言葉だ。

何故この言葉が? これはまだトリスタンでさえ解読出来ていない言葉なのにと疑問に思いつつ、アウルはその先を読む。

「『其の力を持って 黒い女神の夜に空を輪転させよ』」

視線を合わせると、怪盗はアウルからメモを取り上げ、二ッと目を細める。

「どう? 君らの欲しかったものじゃないか? 僕も今夜のパーティに無粋な客は遠慮願いたいからね。さっさとこの屋敷の秘密を暴いてくれ。君は僕だけに集中するべきだ」

メモをひらひらと振りながら告げる怪盗に、アウルは「わかった……この件が片付くまでは、捕まえるのは待ってやるよ」と頷いた。


「あの時……。君がアービー氏の書斎に入った後、使用人の男はカインと一緒に礼拝堂に来たんだ。女も居た」

話し始めたヒュド・ルーの言葉にアウルは驚く。男と一緒にいたのは、使用人の女性とジャックだと思っていたのだ。

「そうなのか。後で関係者に事情を聞かないとな」

「僕は君たちの方が気になっていたから、彼らの方にはあんまり意識を向けてなかったんだけどね。今思えば、ちゃんと話を聞いておけばよかったな。ただ、カインが男と話しながら礼拝堂の天体模型を動かしていたのは見たよ。惑星の位置を変えていた」

「惑星の位置?」

「その後彼が何をしたのかまでは、残念ながら見てないけど」

「なんで最後まで見ておかなかったんだ」

「だって、アービー氏の金庫の方が気になるじゃないか。僕の本来の目的を忘れた訳じゃないだろ? あ、言っておくけど、そこで盗むつもりはなかったよ。予告を無視するのは怪盗の美学に反するから」

「悪党に美学も何もないだろ」

「あるさ。それに僕を悪党と決めつけるのもよくない。善悪二元論者かい?」

「詭弁だな」

「あ、そういうこと言うんだ? 折角、これを見つけて来てあげたのに」

ヒュド・ルーはまた先程の設計図の紙をヒラヒラさせる。

挑発的な彼の態度にムッとして、アウルは「他には何も

盗んでないだろうな、怪盗」と睨んだ。

ヒュド・ルーはYESともNOとも言わず、またアウルの前で何かを掲げてみせる。指先で抓んだそれは、赤くて小さな……当主アービーの部屋にあった宝石だ。

「おい!」

咄嗟にアウルがそれを奪い返そうとするが、ヒュド・ルーはサッと胸ポケットの中に隠してしまう。

「予告したもの以外盗まないって言っただろ!?」

「これは駄賃。君が欲しがってた情報をあげたんだから、大目に見てよ」

「それだと俺がメモの代わりに盗ませたみたいになるだろ!」

冗談じゃない、とアウルは憤慨した。

「じゃあ、エリーとこの石が反応した理由を教えてあげると言ったら?」

「は?」

「あの部屋で起きた事、僕なら説明出来る。彼女が何者なのか知りたくないか?」

「…………」

その言葉にアウルが思わず止まると、ヒュド・ルーは「交渉成立だ」と胸ポケットを叩いた。

「でも、まずはこの屋敷の秘密を解いてみせてよ。僕の話はそれからだ」

「……嘘を吐くつもりじゃないだろうな」

「失礼な。僕は詐欺師じゃない」

「似たようなものだろ」

訝しげにヒュド・ルーを睨んでから、アウルは設計図のメモを反芻した。


生ける地の星

天に送りし捷径

元素統べし四の魔術師

其の力を持って

黒い女神の夜に空を輪転させよ


「一番わかりやすいのは、『四の魔術師』って文言だが」

「魔術師は、やっぱり錬金術師のことかな?」

「だろうな。この屋敷は何代も続く錬金術道具技師の一族の本家だ。それ以外にありえない」

「四って数字は?」

「四元素。もしくは四性質」

「『火』『水』『風』『地』。もしくは、『乾』『湿』『寒』『温』?」

「この屋敷は天体の要素が多い。となると、十中八九、前者だ。星座も四つの元素……エレメントに分けられるからな」

「アウル、君は当然全ての星座のエレメントが分かるんだよね?」

「…………」

ヒュド・ルーの問いに、またアウルは彼を睨む。挑発されているのは察したが、今は素直に答えてやる事にした。

「火のエレメントはサジタリアス、レオ、アリエス。風はライブラ、ジェミニ、アクエリアス。地はヴァルゴ、タウラス、カプリコーン。水はスコーピオ、キャンサー、ピスケスだ」

「ご名答。さすがだね」

「錬金術は占星術にも通じてる。知らないわけないだろ」

アウルは言い返して……ふと、「君のエレメントは水だな。と言うことは、蠍座、蟹座、魚座のどれかか」と呟いた。

「えっ」

ぎくりとするヒュド・ルー。その反応にアウルはにやりとする。

「図星か。君が前に錬金術で水銀を使っていたからもしやと思ったが。錬金術師が得意とする術の属性は、星座のエレメントとほぼ合致する。水銀は『みずがね』とも呼ばれるからな。そうか、君の誕生日が絞れてきたな」

「油断も隙も無い……。勘弁してくれよ。怪盗は全てが謎だから魅力的なんだぞ?」

「探偵は謎を暴いていくから魅力的なんだ。君の情報もどんどん暴いてやるから覚悟しろよ」

アウルの意趣返しにヒュド・ルーは苦い顔だ。

「隠す事でもないから言うが、俺は牡羊だ。火のエレメント」

「だろうね。君は太陽属性の錬金術が得意だし、アービー氏の書斎でランプを持った像が反応してたし」

火と水、あんまり相性は良くないね、僕たち……とヒュド・ルーはわざとらしく嘆いて見せる。

「でも、君、トリスタン……父親とは仲が良いよね。彼とも火と水のくせに」

「ん?」

「僕、まだ国家錬金術師の術を見たことがないんだ。同じ水属性として興味があるな。案外相性が良かったりして」

するとアウルは、ヒュド・ルーの言葉にきょとんとし「トリスタンは水属性じゃないぞ」と答えた。

「彼は地属性だ」

「え?」

「彼は足元に錬金術の術式を形成するのが得意だからな。典型的な地属性だ。ちなみに牡牛座」

そう言ったアウルに、ヒュド・ルーは「おかしいな」と怪訝な顔になる。

「彼の蟹座の部屋の水瓶が反応してたじゃないか。あのアイテムは、同じ属性の錬金術師が触れないと発動しない鍵じゃないのか? 何故水のアイテムが地属性の錬金術師に反応するんだ? ありえないだろ」

ヒュド・ルーの疑問に、アウルも首を捻った。「確かに不自然だな」と部屋の壁に飾ってある絵画を見る。風に白衣を靡かせている聖者の絵だ。それはおそらく風属性の錬金術師が触れると発動する鍵だ。アウルはそれを確認するように手の平で絵画に触れる。反応はない。やはり属性が違うと反応しないのだ。

「なら、何故あの水瓶はトリスタンに反応したんだ?」

疑問が唇からこぼれる。あの後に起こった現象に気を取られ過ぎていてすっかり忘れていたが、明らかに妙である。

「そもそも鍵が『水瓶』なのも不思議だな。『水瓶座』なら、風のエレメントだろ? この部屋にある方が相応しいじゃないか」

ヒュド・ルーもそんな疑問を漏らす。

「部屋と属性……。なら、あれは水の部屋じゃなかったのか? ……そもそもこの屋敷の部屋割りは……」

彼はぶつぶつと呟いていたが、暫くしてはっと視線を上げると「あれは水瓶じゃないんだ!」と気付いた。

「ああ、くそ、思い込みってのは厄介だな! あれは水瓶じゃない。ただの壺だ! 焼き物! つまり土! 『地』のアイテムだ!」

「え? でも、トリスタンの部屋の扉には蟹座のエンブレムが飾ってあったじゃないか」

「そうだ、だから、俺も『水』の部屋だと思って、あれを水瓶だと勘違いしたんだ!」

言うなりアウルは部屋から飛び出した。飛び出して数歩進んでぴたりと止まり「こっちじゃない!」と引き返したかと思うと、エリーの部屋に向かって走った。扉の前に立ち「やっぱりおかしいぞ」と扉にかけられているエンブレムを指差した。

「何がおかしいんだ?」

追いかけて来たヒュド・ルーが尋ねる。

「エンブレムが山羊座なんだ」

「山羊……? エレメントは『地』だな」

「二階は四部屋。それぞれ四属性が割り当てられている。当主アービー氏の射手座の部屋は火。トリスタンの部屋は蟹座で水、俺の部屋は双子座の風、そしてエリーの部屋は山羊座で地だ。だとしたら、本来この部屋にあの壺があるべきなんだ」

そう言うとアウルは扉をノックした。部屋の中からエリーが出てくる。アナスタシアも一緒だ。

「アウル? どうしたの?」

「エリー、ちょっと聞きたいことがあるんだ。中に入ってもいいか?」

「うん」

エリーは頷くと、アウルを中へと促した。ヒュド・ルーもその後に続く。

「……あなた、だあれ?」

ヒュド・ルーに気付いたアナスタシアが彼を見上げて尋ねた。

「新しく雇われた使用人です。ヒューイットとお呼びください」

堂々と答えるヒュド・ルー。その言葉にアウルが振り向くと、ヒュド・ルーはいつの間にか使用人に姿を変えていた。制服を着て、度の強い丸くて大きな眼鏡で顔を隠している。

彼の身代わりの早さにアウルは驚きつつ……部屋の中を見渡した。しかし、部屋の中には何もない。あるのはエリーの荷物だけだ。

「アナスタシア、この部屋には何も置いてないのか?」

「置いてないって、何がです?」

「あー……何か、オブジェとか、絵とか、飾りみたいなものだ」

「飾り……?」

きょとんとするアナスタシア。しかしすぐに「もしかしてお皿のことですか?」と聞き返した。

「お皿?」

「ええ」

「お皿があるのか?」

「いえ、お皿があったんですけど、使用人が持って行ってしまったんです。なんでも、結婚式で使うとか……」

そう言ってアナスタシアが指差したのは、部屋の奥にあるドレッサーの上だ。そこには小さなディッシュスタンドが残されている。それは明らかに装飾用の皿を飾る為のものだが、そこに立てかけられているはずの皿が無い。スタンドだけ残されているのは不自然だ。

「皿って、どんな皿だ? 何か絵が描いてあったりしたか?」

「どんなと言われると」

アナスタシアは両手で大きな円を描くと「青い硝子のお皿です。透き通った湖のような」と答えた。

「……湖のような青い硝子」

「明らかに『水』のアイテムですね、アウル様」

ヒューイットことヒュド・ルーは、ピンと片方の眉を吊り上げた。

「ありがとう、エリー、アナスタシア」

また部屋を飛び出してゆくアウルが次に向かったのはトリスタンの部屋だ。礼拝堂をぐるりと囲むバルコニーを渡り、左奥の扉の前に立つ。扉に掛けられている蟹のエンブレムを睨んで「違う。入れ替えられたのはアイテムじゃない。……この部屋とエリーの部屋のエンブレムを誰かが入れ替えたんだ」と呟いた。

「エンブレムを入れ替えた?」

「ああ、そもそも真上から見ればこの塔の部屋は十二部屋が礼拝堂の周りを囲むホロスコープなんだ。一階と二階に分かれているから一見気付きにくいが、ホロスコープと同じで、時計回りに十二星座順だ。その並びで行くと、トリスタンとエリーの部屋のエンブレムが入れ替えられている。」

「誰がそんな事を?」

「さあな」

溜息を一つ。「どうしてもっと早く気付けなかったんだ」と自身の額を叩いてアウルは唸る。

「右隣のアービー氏の部屋が射手座なら、このトリスタンの部屋は山羊座の部屋でなくちゃいけない。山羊座なら地のエレメントでアイテムとも合致するからな。俺は馬鹿か。こんな単純なことにも気付けないなんて」

自己嫌悪に陥るアウル。ヒュド・ルーも頷いて、バルコニー下の礼拝堂をぐるりと見渡した。

「部屋は星座の順番で円環状。つまりその事に気付かれたくなかった人がいるって事かな?」

「気付かれたくなかった……。何に気付かれたくなかったんだ? 誰が? 何故?」

アウルも礼拝堂を見渡す。

「生ける地の星 天に送りし捷径 元素統べし四の魔術師 其の力を持って 黒い女神の夜に空を輪転させよ……」

そしていまだ謎のままの言葉を繰り返す。

「四の魔術師……つまり、火、水、風、地の属性を持つ錬金術師が……『空を輪転させる』と何かが起こる……?」

階段を降りた二人は、礼拝堂の中央まで歩き、そして床を見る。そこにあるのはホロスコープだ。

「ここにもホロスコープ。まるでこの塔自体が巨大な天体の配置図だな」

「アウル。ここに何かある」

10フィートはありそうな巨大なオーラリーの下に立っているヒュド・ルーが台座を指差す。

「これ、例の古代文字に似てないか?」

「確かに似てるな」

彼が指差す手元を見ると、台座には見覚えのある文字が並んでいた。トリスタンが読み解いていた錬金術の術式とよく似ているが、アウルには読めない。

「台座に四つのエレメント……それぞれ、二階の四部屋のエレメントと方向が合致している。これが鍵穴なのか?」

「この手の仕掛けは、大抵何人かの錬金術師が協力して術を重ねて解くものだけど」

「てことは、四の魔術師……火、水、風、地の錬金術師がこの台座に向かって術を重ねると何かが起こるってことか」

「そのようだね」

「試してみたいな。丁度この屋敷には四人の錬金術師が揃ってる」

「揃ってるのか?」

「ああ。火の俺と、水の君と、地のトリスタン」

「風は?」

「ジャックが風属性の錬金術師だ。彼は天秤座。魔力は弱いが風属性だ。彼が術を使った時、風が起こるのを見た」

「へえ、興味深い、だが何が起こるのかが分からないよ」

「そこなんだよな」

ベルクフリートの仕掛けを作動させた後何が起こるのかは古代文字が示しているのだろうが、現状で術を発動させるのは危険だ。

「でも、試さないのは惜しいな。四属性の錬金術師が揃うなんて、大学の授業以外では滅多にないから」

そう言うヒュド・ルーにアウルも同感だったが、一つ疑問が浮かぶ。

「いいのか? トリスタンと俺がそろえば、君を捕まえるのも容易いぞ?」

「僕は今、アービー氏の召使いで、かつ水の錬金術師さ。君、この件が片付くまでは口裏を合わせてくれるんだろ?」

「……片付くまでだ。そうと決まれば、もう一人の錬金術師を呼ぼう」

釘を刺すように言うと、アウルは再びトリスタンの部屋に向かった。ヒュド・ルーも付いて行く。扉をノックすると、返事をして扉を開いたのはラルフだった。

ラルフはアウルの後ろにいたヒュド・ルーを見るなり、クンと鼻を鳴らして不思議そうな顔をしたが、「トリスタンは居るか?」というアウルの問いに「旦那様なら、今、ご友人とゲストルームにいらっしゃいます」と答えた。

「友人? アービー氏か?」

「いいえ、旦那様のゲーム仲間のお一人です。その方も結婚式の参列者だそうで。今頃白熱の勝負を繰り広げてらっしゃるかと」

答えたラルフの指は、チェスの駒を摘まみ上げる動きをした。




■■■■■■■■■■




「旦那様のゲームの邪魔はいけませんよ」

アウルがゲストルームに向かうと、入り口にはハンナが立っていた。

扉の前で仁王立ちになっているハンナは、アウルの入室を許さない構えだ。

「邪魔じゃない。甘えに来た」

「は? 甘え……?」

聞きなれないセリフにハンナは一瞬呆気にとられ、その隙にアウルは扉を開けてしまう。ハンナは慌てて彼の袖を掴むと「駄目です! 貴方がそんな事を言うなんて。……なにか企んでますね?」と疑いの眼差しを向けた。

「企んでない。息子がパパに甘えて何が悪い」

またハンナが総毛立ちそうな事を言い放ち、アウルはゲストルームの中へ入ってしまう。

トリスタンは夕闇の迫る窓際でゲームをしていた。真剣な顔だ。だが躊躇う事無く近付いて、アウルは「トリスタン」と声を掛けた。

「アウルか。どうしたのかね?」

トリスタンはチェス盤から目を離さないまま返事をした。

「聞きたいことがあるんだ」

「ふむ……。しかし、今は勝負の最中でね」

「申し訳ないが、緊急で――」

そう言ってアウルは、トリスタンの向かいに座る相手にゲームの邪魔をした事を謝罪しようと視線を向けて……ぎょっとした。

「貴方は!」

「おや、これは驚いた。またお会いしましたね、探偵君」

「何故、貴方がここに?」

驚いたアウルは、相手とトリスタンを交互に見て「貴方が父のゲーム仲間?」と謝る事も忘れて尋ねた。

「父……と言うことは……」

相手も一瞬驚いた顔を見せたが、しかしすぐに納得したように「なるほど、貴方が……。いやはや、聡明なところがそっくりだ」とトリスタンとアウルを見比べた。

相手の切れ長の瞳が、二日月のように細められる。どこか得体の知れない笑顔は、つい先日、列車の中で見たものだ。

すると、二人のやり取りを見ていたトリスタンは、警戒の色を含ませた声で「マスティマ、いつの間に私の息子と知り合ったのかね?」と尋ねた。

「お困りのことがあれば、私の方から紹介すると言ったはずだが?」

「ああ、そうでしたか。貴方が出資なさっている探偵事務所の探偵とは、いつも自慢している息子さんのことだったと。ようやく理由が分かりましたよ」

そう言って大袈裟に頷いて見せたのは、先日の夜行列車で乗り合わせた政府高官・マスティマだった。

まさか彼がここに居るなどとは夢にも思っておらず、アウルは戸惑いを隠せない。そして背後にいるはずのヒュド・ルーを思い出し、慌てて振り返ったが……そこには既に誰も居なかった。逃げたようだ。賢明な行動だなとアウルはほっと息を吐き、「列車で乗り合わせたんだ」とトリスタンに説明した。

「列車で?」

「ああ」

「それは……なかなか無い偶然だね?」

マスティマを見るトリスタンの眼光が鋭く尖る。家では決して見せない、内臓の中まで開いて観察するようなその視線に、アウルは思わず息を呑む。だが、マスティマは怖じ気付く事なく「偶然ですとも」と優雅に肩を竦めて見せる。

「なかなか紹介をしてくれないものだから、どんな方かと思っていましたが……。ふふっ、想像以上に面白い息子さんだ」

「出来ればまだ秘密にしておきたかったがね」

予定が狂ったとトリスタンは明らかに苛立ちを見せ、ソファの背もたれに背中を預けた。

そんな二人の間に流れる空気に、ナイフの切っ先を向け合っているような不穏な何かを感じる。だが、今はそんな事にかまってられるかと、アウルはテーブルの上で展開されているチェス盤を見下ろした。そして盤の上の駒の一つを抓んで、ポンと動かしてしまう。

「あ?」

「おや?」

「ああ~~アウル~~そこで……それを動かすと……ん……?」

「これは困りましたね……」

それを見て、トリスタンとマスティマはお互いの駒の形に釘付けになる。さてここからどう動かせばいいものかと二人が悩み始めたところで、アウルは「これで暫くは動かないだろ」と言い、トリスタンに「あの古代術式は解読出来たのか?」と尋ねた。

「いや、まだだ。あれは手強い」

「分かるとこまででいいから、もっと詳しく読み方を教えてくれ。礼拝堂の模型にも同じ古代術式が書かれていたんだ。興味がある」

「おや、抜け駆けは良くないぞ、アウル。あの模型に書かれているものは、後で私がじっくり読み解こうと思っていたお楽しみだ。人が楽しみにしているデザートを横から奪うようなマネは感心しないな」

「いいじゃないか。俺が先に読み解いても、黙っていればいいんだろ? と言うか、一緒に解いてくれたらいいじゃないか」

「だめだ」

「可愛い息子のおねだりが聞けないのか?」

「可愛い息子でも、だよ」

「グレるぞ」

「それは……ちょっと見たい気もするがやめてくれ」

「なら教えてくれ、頼む、急ぐんだ。あれを読み解いたら何が起こるのか知りたいんだ」

粘り強く頼み込むアウルに、トリスタンは目を逸らした。何か隠しているな? と気付いたアウルが、更にトリスタンに迫ろうとしたところで、マスティマがそれを遮った。

「マクリーチ家に隠された術式というと、『離魂の禁術』でしょうか」

「え?」

ぽつりと呟かれた言葉に、アウルは瞬きをし、トリスタンの顔色が変わった。

「おい、マスティマ、その話をどこで聞いた!」

「さあ、どこだったか。でも私は錬金術史と共にある教会関係者でもありますから」

「マクリーチ家の秘術がそう簡単に漏れ伝わるわけ無いだろう!」

「おや、貴方がそんな風に慌てるとなると……ただの噂にも信憑性が増してきましたね」

マスティマはチェスの駒を摘まみ上げ、ゆらゆらと揺らして、「ああ、ここではダメだ。むずかしいな」と元の位置に戻した。

「アウル君、マクリーチ家の屋敷には、体と魂を分離する錬金道具が隠されているという噂がありましてね」

「体と魂を分離するだって? そんな馬鹿な」

アウルは信じられないと首を振るが。

「信じないのは自由です。今でこそ宝石商を名乗っていますが、マクリーチ家は古来より技術を磨き、『出来るわけがない』ことを可能にしてきた。そういう一族です。大昔、天が彼らに与えた『天啓』は一流の錬金術師をも凌駕する」

チェス盤を見下ろしたまま語るマスティマの指は、ポーンを弄んでいる。人質を意味するその駒は動けない。

動けないポーンを見て、アウルは思い出した。昼間、礼拝堂で倒れた男の事を。あの男は魂を失っているとジャックは言っていたが……。

「与太話だ。本気にするな、アウル」

トリスタンはそう言うが、アウルの脳裏にあの言葉が甦る。

生ける地の星 天に送りし捷径。

『生ける地の星』が、『人の魂』を意味するのだとすると、『天に送りし捷径』とは、天国に送る方法だと読み取れないことも無い。

「四人の錬金術師が……同時に術式を発動すれば……いやでも、あの時、俺たち以外の錬金術師はいなかった……だとすると」

そこまで推理したところで、トリスタンが「やめなさい、アウル」と厳しい声で彼を制した。そこに足を踏み入れてはいけない、踏み止まれ、と睨まれて、アウルは息を呑んだ。その目が今まで向けられたことのない厳しいものだったからだ。見つめられて、全身が竦んだ。

その時だ。ゲストルームの扉を叩く音がした。

剣呑な空気がわずかに和らいで、三人がそちらを見ると、扉が開いて「ゲームの邪魔をして申し訳ありません」とエリザが現れた。

「おや、これはなんと、美しい!」

トリスタンは彼女の姿を見るなり感嘆の声を上げた。というのも、彼女がウェディングドレスに身を包んでいたからだ。ベールとティアラをかぶり、上から下まで純白で彩られたその姿は実に麗しい。トリスタンの向かいでは、マスティマがティアラの赤い宝石を見て「……見事だ」と、うっとりと吐息を漏らしている。

「どうしました、花嫁さん。もうすぐ誓いの儀の時間では?」

「ええ、トリスタン様。そうなんですけど、あの、ジャックを見ませんでしたか?」

「ジャック君? あの幸福な花婿がどうかしましたか?」

「いつの間にかいなくなってしまって。さっきまで誓いの儀の台詞の練習をしていたのに」

此処には来ていませんか? と尋ねるエリザ。

そんな彼女に、テーブルの脇で紅茶を淹れ直していたハンナが顔を上げた。

「ジャック様でしたら、誰かとお話をしながらお庭を歩かれている所をお見掛けしました。直ぐ角を曲がってしまわれたのですが、あのお声はジャック様かと」

「え?」

「はい。一緒にいた方の顔までは見えませんでしたが」

ハンナが答えると、エリザはたちまち訝しげな顔になる。

「なぜこんな時に……」

狼狽え始めた彼女がハンナに「二人はどこに行ったの?」と尋ねると、ハンナは「裏庭の方です」と答えた。

「裏庭? そんなところで何を」

エリザは思案気に俯いたが、すぐに「まさか……!」と青褪め、走り出した。