ツカサは暗闇の中で目を覚ました。
(っ……ここは?)
目を開けても閉じている状態と変わりはない。
天地の区別もつかず、自分が今、浮いているのか? 落ちているのか? それすらも分からない。
(……どうやら、死んだわけじゃなさそうだな)
意識の覚醒と共に始まった身体の痛みからツカサはそう判断した。
もし自分の命が無くなったのであれば、きっと身体の痛みも無くなるだろう。
(だが……一体ここは? 銀はどこだ?)
自分が無限目鬼に飲まれたということは覚えている。
だがここは完全な闇が支配する空間で、自分以外の何者の姿も確認できなかった。
圧倒的な孤独。
絶望的な虚無。
このまま闇の中で永遠に独り彷徨うのではないかという恐怖がツカサを襲う。
ツカサはそんな負の感情を蹴散らすように高く鳴いた。
だがそんなツカサの声に反応するものはなく、反響すら返ってこない。
【……銀! どこだ! どこにいる!?】
ツカサは何度も銀に呼びかけた。
するとにわかに周囲が色づき始め、ツカサはその鮮やかさに思わず目が眩んだ。
そこに現れたのは……。
【銀ッ!】
今よりも幼い銀の姿だった。
傍には大奥様、そして欲と脂肪を腹に溜めこめた初老の男が座っていた。
【銀! 俺だ! ツカサだ! おい!】
ツカサは銀に話しかけたが、何も反応はない。
銀だけではなく、大奥様や男もツカサに対し何の興味も示さなかった。
ツカサは銀に鼻先でそっと触れてみた。すると、何の抵抗もなく彼の身体を突き抜ける。
どうやらこれは精巧なホログラフィに似た映像のようだ。
映像の中の大奥様が男に言う。
「……では、今度はこの政治家を排除すればよろしいのですね」
「ああ。急な話で済まないが、今度の選挙までに頼みたい」
「かしこまりました……出来ますね?」
今よりだいぶ幼い銀は虚ろな目で頷く。
「はい。大奥様のお望みであれば」
「結構」
2人のやり取りを見ていた男は大きな腹を揺すって笑う。
「ハハハッ! 全く便利なものだな! 言ノ葉の力……と言ったか? 相手の心をいともたやすく破壊できるとは!」
「人の心は欲があり、弱みがあります。このお狐様の力はそれをタテマエとして具現化させ、暴走させることも、壊すことも可能ですから」
「ククク……言ノ葉の力は警察の手も及ばぬからな。私の出世のために、今後も贔屓にさせてもらうよ。無論、その度に報酬は弾ませてもらう」
「ありがたき幸せです」
下卑た笑いを浮かべる大人の声に銀は何も反応しない。だが、彼の瞳は段々と曇っていくように見えた。
(これは……銀の過去なのか?)
ふと、周りを見ればいつの間にかいたるところで銀の過去が再生されている。
万華鏡のように映し出される銀の過去を、ツカサはいくつか覗いてみた。
ある時の銀は、若い美女と永遠に交わりたいという老いた男の願いを叶えた。
またある時は自分を捨てた男を恨む女の復讐に手を貸した。
大企業の社長息子が犯した殺人の罪を無かったことにしたこともある。
色欲、強欲、暴食、憤怒、嫉妬、傲慢……ありとあらゆる罪と穢れが映し出される。
それは皆、銀の中に吐き出された人間たちの欲だった。
(銀……あいつはこんなにも人間の薄汚い部分を見てきたのか)
ツカサは奈落の底をたった一人で見続けてきた銀の絶望を改めて知った。
だが、どこの景色にも本物の銀はいない。
(……銀はあそこにいるに違いない)
ここは銀のタテマエ無限目鬼の中。つまりここに映る過去は心象風景であり、心の中のイメージだ。ならば、同じく銀の心から生まれた自分には、ある程度自由が許されているはずだ。強い意志があれば、きっとその場所に飛べるに違いない。
幸いではないが、最近、毎晩の様に追体験してきた場所だ。イメージするのは簡単だった。
銀にとっては終わりの始まり。ツカサにとっては始まりの日。
あの惨劇の満月をツカサは強く想って、目を閉じた。
やがて身体中を焦がす熱気と、血と肉と瓦礫が焼ける嫌な臭いを感じて、ツカサは目を開けた。
空には凍り付いた満月が無慈悲に見下ろしている。間違いなくここはあの惨劇の夜だった。
(銀! どこだ!)
ツカサは銀を探し、半ば焦土と化した葛葉家の敷地を駆け抜ける。
途中、過去の己が喰い殺した人の亡骸が目に入り、思わず足を止めそうになるが、迷いを振り切りツカサは走る。
【銀ッ! どこだッ! 銀ーーッ!】
そしてようやくツカサは崩れかけた屋敷の中で、うずくまり膝を抱えて泣いている幼い銀を発見した。
【銀ッ!】
「……ツカサ?」
銀は真っ赤な瞳を上げて、ツカサを見る。
その様子は今まで見てきた悲しいシネマに映る銀とは明らかに異なっていた。
【良かった……銀、さあ、俺と一緒に帰ろう】
「ぼ、僕は……」
銀に近づこうとした瞬間……心臓を射抜くような殺気を感じ、ツカサは反射的に後ろへ飛び退いた。
【ククク……良い勘、してるじゃないか。流石だな】
【誰だッ!】
ツカサの声にゆらりと陽炎のような黒い影が現れる。
【……俺が誰だと問うたか? 葛葉 ツカサよ】
【なっ!?】
姿を現したのは、鋼のように固く光る毛、全てを切り裂く刃の如き爪、のこぎりのような歯、鬼灯よりも赤く輝く瞳……。
【お前は……俺?】
ツカサの前の前には自分と瓜二つの大狐がいた。ただしツカサが黄金色の毛を持つのに対し、相手の毛並みは闇夜をそのまま写し取ったように漆黒だった。
【クハハハハッ! そう! 俺はお前さ、葛葉 ツカサ!】
漆黒の大狐は低く喉を鳴らし笑い声をあげると、そのままツカサに向かって突撃し、前足の爪で彼を裂こうとした。
【くっ!?】
タッチの差でツカサは身をよじり攻撃を避けたが、その結果銀との距離は離れてしまった。
それを良いことに漆黒の大狐は、銀を懐に収める。
【銀を迎えに来ただって? おいおい、何馬鹿なこと言ってんだよ、俺】
【なんだと?】
漆黒の大狐はぬるりと光る舌で銀を舐めながら低く嗤う。
【銀がしたことを忘れちまったのか? コイツが全てを血で染めた満月の夜を思い出せないのか?】
【……忘れるわけないだろう】
【だったら、どうしてだ? 俺? どうして銀をここから連れ出そうなんて、酷い真似をするんだ? コイツが外に出たって今までの罪……そして新たな罪に苦しむだけだぜ?】
漆黒の大狐が言う通り、今回無限目鬼の出現により大勢の人が傷ついただろう。
中には大奥様のように命を落とした者もいる。
そのことが分かっているのか、幼い銀は身を震わせた。
【なあ、銀? お前、もう嫌だよな? 人の悪意に曝されるのも、人の悪意を受け止めるのも……何もかも投げ捨てて、終わりにしたいよな?】
「ぼ、僕は……」
漆黒の大狐の問いかけに銀は再び顔を伏せてしまった。
【どうせここから出てっても、何も変わりはしない! お前はどこまで行っても、罪にまみれ不幸な人生を過ごすのさッ! ヒヒィハハハハァァーーッ!!】
【それ以上、余計な口を叩くんじゃねえッ!!】
ツカサは漆黒の大狐に向かって吠えると、火球を飛ばした。
漆黒の大狐は火球をまるでコバエを追い払うように尻尾で叩き落とす。
【銀、そんなヤツの言う事を聞くな! 俺は、お前の本当の気持ちを知っている!】
ツカサの必死の訴えに漆黒の大狐は耳を伏せる。
【あーあ、つまらねえな。俺。何、そんなに熱くなってんだよ。お前、そんなキャラじゃねえだろう。もっと他人にも自分にも興味がない男だったじゃねえか。いっつも何もかも面倒だってツラしてたよな? だったらもう、ここで終わってもいいだろう?】
【それは……】
【大体なあ……今更だぜッ!!】
漆黒の大狐は彼我の距離をあっという間に縮め、ツカサに迫る。
【銀をここまで放っておいたのは、テメーじゃねえか! 術で記憶を封じられてた? だから満月の夜の記憶は忘れてた? ……ハッ! 本体がここまで追い詰められてたのにいい気なもんだッ!】
【ぐわあッ!?】
漆黒の大狐はツカサの背に牙を立て放り投げ、思いきり崩れかけた屋敷に叩きつけた。
全身を強く打ったツカサは思わず苦悶の声を挙げる。額が切れたのか、血で目がかすみそうになった。
その隙を逃すまいと、漆黒の大狐はツカサを追撃する。
【肝心な時に役に立たない、ホンネなんて、居てもいなくても一緒だろう!? だったらここで銀と一緒にくたばれッ! それが本望だろう!?】
【ぐっ!】
漆黒の大狐の牙が尻尾と足に連続で突き刺さる。
みるみるうちにツカサの黄金色の毛並みは赤く染まっていった。
【俺は、お前と違って、この十数年、銀と一緒に居たんだ! コイツに寄り添っていたのはこの俺、『絶望』だ! 今更『希望』なんて、お呼びじゃねえんだよ!】
【銀が……『絶望』に守られて……いた……だって?】
【ああ、そうだ!】
漆黒の大狐はツカサの上に覆いかぶさるようにして前足で身体をしっかりと固定する。
【俺はずっと銀を守ってきた! ……そしてこれからもな!ッ!】
漆黒の大狐が巨大な咢を全開にして、ツカサに喰らいつこうとした。
だがそれはツカサが狙っていた瞬間でもあった。
【……それは違うッ!】
ツカサは全意識を漆黒の大狐の喉元に集中させ、一気に食い破った。
【ギャアアアーーッ!?】
首元から大量の闇を撒き散らし、漆黒の大狐は巨体を地面に沈めた。
【……確かにこの十数年、銀と寄り添っていたのはお前かもしれない。だが、銀が最後までギリギリのラインで心を無くさずにいられたのは、決してお前のおかげなんかじゃない】
ツカサの言葉を聞いた漆黒の大狐は、口から血のような闇を吐き、酷く聞き取りにくい声で嗤った。
【……なんだ? じゃあ、自分のおかげとでもいうつもりか?】
【それも違う。そもそも俺は『希望』なんて大したもんじゃない。せいぜい『願い』の1つと言ったところだよ……俺は、お前の言う通り、銀の『希望』としては中途半端な存在だったからな】
ツカサは言った。
【銀がここまで壊れずに生きてきたのは銀自身の心の強さによるものだ……俺はただのきっかけに過ぎない。最後に銀を支えていたのは、銀自身であり、空やじいやたちと過ごした優しい思い出なんだ】
【フン、綺麗ごとを】
【証拠は俺自身だ。俺はただの平凡な高校生で、ただの葛葉 銀のホンネ。そしてアイツの心からの望みだ……もし銀が心を喪い絶望に飲まれていたら、俺は今、こんな姿をしていない】
人のホンネは姿を変える。現に最初ツカサは暴虐と残虐の化身だった。
【俺が葛葉 ツカサとして意識を保ち、お前をここで倒すことが出来たのが、銀はまだ救えるという証なんだよ】
【随分と青臭いことを言う……本当にお前は、俺なのか?】
【俺は……全てを憎み、破壊を望んだ大狐、お前とは違う。俺の名前は葛葉 ツカサだ】
漆黒の大狐はツカサの言葉を鼻で笑った。
【ああ、そうかい……ったく、生きるのが面倒だっていうお前なら、あっさり喰ってやれるかと思ったのにな】
【ああ、生きるのは面倒だよ。仲間だとか、友達だとかは特に面倒臭いな……でもそういうもんなんだよ。本当に大事なモンってのは、手間暇かけて守りたいって思うものなんだ。だからこそ、愛おしいんだろう?】
【ハ、ハハハ……そんな、もん……かね】
漆黒の大狐はボロボロに崩れながら、最期まで嗤いを絶やさなかった。
【……きっと……後悔するぜ……お前も……銀も……ここで……俺に……喰われた方が……遥かに……楽……だった……ってな……】
やがて漆黒の大狐は砂のように崩れ去り、その身体は炎に撒かれて消えていった。
【ったく、最期まで余計なことを……さてと】
ツカサは銀に歩み寄ると、再び声をかけた。
【……銀。俺と一緒に帰ろう】
だが銀は顔を伏せたまま、いやいやをする。
「僕は帰れないよ……だって誰にも僕は望まれていない。僕は、存在するだけで色んな人に迷惑をかけてしまうんだ。あの満月の夜も、そして今回のことも……」
【銀……】
「だったらせめて、自分の犯した罪を償おうと、葛葉家に尽くそうとした。大奥様の言う事は何でも聞いた。でも、そうしたらまた新たな罪が増えていくんだ! ……もう嫌なんだ。こんなの」
銀は自分の膝に爪をたて、振り絞るような声でツカサに告白を続けた。
「もう嫌なんだ。何も考えたくない。僕の価値は全てを諦めて、受け入れることなんだろう? ……それなら、僕自身なんていなくてもいいじゃないか。僕の力も何もかもをツカサにあげるよ。だから、もう僕のことは放っておいてよ」
銀の言葉を聞いて、ツカサは低く唸った。
【……銀、それはただの逃げだ。お前はまだ自分の本心から逃げるのか!?】
「ツカサに僕の何が分かるのッ!?」
銀は顔を上げ、紅玉の瞳から涙を流しツカサを睨んだ。
「ツカサにどうして僕の本心が分かるのさッ! 自分自身だって、どうしたらいいか分からないのにッ! どうして今まで僕のことを忘れていた君に僕のことが分かるんだよッ!」
【分かるさッ! 俺はもう一人のお前……葛葉 銀のホンネなんだからッ!】
ツカサは叫んだ。
【お前はあの満月の夜、俺に言ったよな? 『 自分の過ごしたかった日常を過ごせ』『誰よりも幸せになれ』と……】
「それは……」
ツカサは銀に穏やかに語る。
【銀、俺は今まで、面倒な奴らと一緒に居たぞ。やたら規則に厳しいくせに、妙に間の抜けた風紀委員や、嘘なのか本当なのか分からないことしか言わない厚化粧女、すぐにキレていつも不機嫌な顔しかしないバイト娘、ぎゃーぎゃーとうるさくてこっちの体力を削る自称天才中学生……】
「……何それ、まるで良いことがないみたいに聞こえるけど」
【良いこともあれば悪いこともある。だが、概ね下らないことばかりさ。下らなくて、甘っちょろくて、面倒極まりない、普通の学生生活だ……でもさ、どいつもこいつも大事なんだ。あいつらの替えなんてどこにもいない】
仲間と過ごした日々は、ツカサを変えた。
無感動で無関心だった彼を『普通』で『幸せ』な学生に成長させたのだ。
【銀、お前が望んでいたのは、こういう普通で、幸せな生活なんだろう? だったら……今度は俺だけじゃなくて、お前自身が掴み取れ。俺は確かにもう一人のお前かもしれないが、それでも、やっぱりお前の替えにはなれないんだ。今度はお前が幸せになる番だ】
「ツカサ……」
銀の紅玉の瞳が迷いで滲む。だが、彼はまだツカサに手を伸ばそうとはしなかった。
「……無理だ。僕が幸せなんかになれないよ。なっちゃいけないんだッ! だってッ!」
銀は両手を広げ深紅に染まった葛葉家を見渡す。
「僕はこんな惨劇を起こしてしまったッ! 大勢の人の命を奪ったッ! ……そんな僕が、どうして今更幸せを願えるだろう……」
銀は力なく肩を落とし、紅玉の瞳からポロポロと涙を落とした。
ツカサはうなだれた銀をしばらく無言で見つめていたが、やがて言った。
【……どうして罪を償うことと、不幸せでいることが等しくなるんだ?】
「えっ?」
【罪を償いつつ、幸せなればいいじゃないか】
「そ、そんなこと……許される訳……」
ツカサは戸惑う銀を遮り吠えた。
【銀、確かにきっかけはどうしようもなく、避けられない悲劇だったかもしれない。でも今のお前は進んで自ら不幸になりたがっているだけだッ! 『自分は可哀想だから』『自分は他人と比べて恵まれてないから』……哀れな自分を言い訳にするなッ! 不幸を理由に停止するなッ! 孤独に慣れるなッ! 悲劇に酔うなッ! それじゃあズルをしているのと結局同じだろう!?】
「僕が……ズルをしている?」
【ああそうだ……自分は罪を犯した。だから不幸になって当然だ。恵まれなくて当たり前だという思考は、裏を返せば『不幸でいることで、罪を贖えている』と言っているのと同じだ。だが人が不幸になるのは恐ろしく簡単なんだよ。幸せになる努力を止め、自分を諦め、考えるのを止めればいいんだからな。これほど簡単なことはない……お前は、そんな楽をして本当に罪を償ったつもりなのかよ? ……違うだろう? そんなの、ただお前1人が勝手に不幸になって終わりじゃないか】
「………」
銀は唖然としている。だがツカサの言葉は止まらない。
【銀……確かにお前は許されない罪を犯した。その重さは今後も変わらない。お前が美味いものを食う時に、友人と笑いあう時、家族と語らう時、充実した一日の終わりに感謝して眠る時……幸せでいる時ほど、お前は自分の犯した罪を思い出し、後悔して苦しむだろう。それがお前の贖罪だ。決して癒えることはなく忘れてはいけない心の傷だ。お前は一生、身を引きちぎられるような痛みに苦しみ、後悔をする。だから苦しんで、苦しんで、苦しみぬいて……その上で、幸せになれ。俺がお前の苦しみを半分背負ってやるから】
「ツカサ……」
【お前が幸せに向かって歩く限り、己の罪と真っ正面から戦い続ける限り……俺がお前をずっと守り続ける。誓うよ】
ツカサの言葉にようやく銀は力が抜けたような笑みを浮かべる。
「……ツカサ、君って案外容赦がないんだね。ここで滅びを待つのより、ずっと難しくてずっと辛いことを言うんだもの」
【俺は銀のホンネだ。もう一人の自分に対して遠慮なんてする必要はないからな。それに簡単でインスタントな人生なんてつまらないだろう? ……俺は、あいつらと一緒に過ごして、そう気がついたんだよ】
「ツカサの友達……僕も友達になれるかな?」
【なれるさ。アイツらの方が放っておかないよ。とにかくおせっかいな奴らばかりだから】
「そっか……」
銀は泣き笑いを浮かべる。
「僕は不完全だから、これからの人生でまた誰かを傷付けてしまうかもしれない。それでもいいんだろうか?」
【不完全の何が悪い。人は不完全でどこか欠けているから、お互いを求めあい、愛し合うんだろう? 】
ツカサは大きな尻尾で優しく銀の身体を包み込んだ。
それはあの満月の夜、ツカサが初めて銀と出会った時に彼がマフラーを自分に巻き付けてくれて、凍える身体を温めてくれた姿に似ていた。
銀は穏やかな表情で目蓋を閉じる。
「あったかい……」
銀の目から涙がこぼれ落ちる。
「……僕は、こうやって誰かと寄り添って生きてもいいのかな? ……幸せを望んでもいいんだろうか?」
【……当たり前だろう?】
「うん……」
ツカサの言葉を聞いた銀の身体は、月の輝きのような真っ白の光を放つ。
その光は惨劇の夜の赤を全て包み込むと、忌まわしい風景を全て消し去ったのだった。
銀が無限目鬼との決別を決意すると、ツカサと銀を取り巻く世界はガラリと様子を変えた。
先ほどまでの惨劇の満月でもなければ、銀の過去を写す悲しいシネマでもない。
今の無限目鬼の中は生き物の内臓のようにグロテスクな巨大な空洞になっており、そこには吸い込まれた建物の残骸や、ガラスなどの瓦礫が辺り一面に散乱していた。
どうやらここは無限目鬼の体内の最下層部らしい。
【不気味な場所だな。こんな所、さっさとおさらばしよう……出口は、どこだ?】
「ええと……ちょっと待って……うん、アレだと思う」
銀が指差したのは遥か上空に浮かぶ小さな白い点だった。
【あれは……月か?】
周囲の薄暗さと今までのイメージからツカサは一瞬勘違いしたが、あの点は夜空に浮かぶ月ではない。丸い出口から差し込む外の光だった。
【よし! 一気に駆け上がるぞ! 銀、しっかり俺の背に捕まってろ】
「うん」
銀が自分の背に乗ったことを確認して、ツカサがいざ飛び上がろうとした瞬間、突如激しい揺れが2人を襲う。
周囲の瓦礫が崩れ、上からも大小様々な種類の破片が落ちてくる。
ツカサは銀を庇いつつ、足で踏ん張って体勢を立て直した。
【くっ!? なんだこの揺れは!】
「ツ、ツカサッ! 見てッ!」
銀が指差したのは遥か上空の出口だ。
よく見ると段々と穴が狭まっているように思える。
「多分、無限目鬼の最後の抵抗だ。本体の僕がここから出たら無限目鬼は力の供給源を失ってしまう。だから、僕をここから逃がすまいとしているんだ」
【チッ! 諦めの悪いヤツだ】
だが無限目鬼の抵抗はそれだけはなかった。
「――規規則則改改正正遅遅延延問問題題」
どこかで聞いた覚えのある吠え声。
ツカサは耳を立てた。
【この声は……】
虚空に浮かぶ大きな影法師のような人型。全てを縛り付け、押し付ける鎖とハンマー。
間違いなく鹿乃川 律のタテマエ『コトワレ』だ。
【なんで『コトワレ』がここに!?】
「ツカサはあの化け物を知っているの?」
【ああ……】
ツカサは手短に銀に『コトワレ』について説明をした。
「……恐らくだけど、無限目鬼はツカサが『強敵』だと思った相手をコピーしたんだと思う」
無限目鬼は人の心の闇を覗き、その全てを受け入れ、飲み込んできた銀のタテマエだ。本体の性質が色濃く反映している。
恐らくツカサを飲み込んだ時に、彼の記憶や霊基を読み取ったのだろう。
【フン。ゴール前の門番ってわけか……って、待てよ? 俺が『強敵』と思ったやつが、復元されるっていうのなら……】
ツカサの嬉しくない予想は的中した。今度は甘ったるいバニラの香りと眉をひそめる腐敗臭がツカサの鼻を刺す。
「HHH・AAA・TTT・EEEE――」
硬質で油を引いたようにギラギラと輝く巨大な8本の足。
マカロンに似た身体から湧きだす生クリームはすぐに腐り落ち、地面を穢す。
そして西洋のお城を背負い、大きな苺の核を持ったその姿は間違いなく……。
【――『女郎蜘蛛』!】
それだけではない、ツカサたちの周囲に瞬時に鋼の棘が張り巡らされた。
鉄条網を敷いたのは緑色の包帯でグルグル巻きになったタテマエだ。
むき出しになった大きな目から毒の霧が放出され、辺りに漂う。
【今度は『鬼カベ』か。となると……】
「HAHAHA☆ YOU ARE 絶望☆」
けたたましい笑い声と共に虚飾と矛盾を纏った巨大なパペットの猿のようなタテマエが半ば崩れたビルの上に姿を現した。
【やっぱり『クチサケザル』、お前も現れたか……ったく、揃いも揃ってろくでもない奴らばかりが湧きやがったな】
過去にツカサが封じたタテマエたち。
本体である少女たちの協力を得て、ようやく葬ることが出来た強敵たちだ。
到底、ツカサ一人で倒せる敵ではない。
だが……。
【――所詮お前らはタテマエの模造品。そんな劣化版に負けるかよッ!】
「則則則則規則規則違反反反反反反罰罰罰ッ!!」
戦いの口火を切ったのはコトワレだった。
巨大なハンマーをツカサに向かって振り下ろす。
ツカサはそれを華麗に身を翻し避けた。
すると今度は女郎蜘蛛が口から糸の代わりに強酸の混じった生クリームを飛ばしてくる。
ツカサは咄嗟に周囲の瓦礫を尻尾で飛ばし盾にした。
コンクリートが溶解する音と匂いが立ち込める。
【銀、お前はここからなるべく離れて、隠れてろ】
ツカサはタテマエたちから距離を取ると、背中から銀を下ろした。
今の自分では足手まといになると判断した銀は、ツカサの言葉に頷いた。
「……分かった。ツカサ、気を付けてね」
【ああ、すぐにコイツらを片すッ!】
上空に目をやると、出口は先ほどよりも明らかに小さくなっている。一刻も早くタテマエのコピーたちを倒し、脱出しなければならない。
だがそんなツカサの焦りを嘲り笑うように、女郎蜘蛛が生クリームの弾丸を次々と飛ばしてくる。
「LOOOOOOOOOOOOOVEMEEEEEEEEEEE!!」
そしてコトワレもまた自身の身体に巻き付けていた鎖を飛ばし、ツカサに攻撃を仕掛けてくる。
「規律違反反反反対対対対対対誅伐伐伐伐罰罰ッ!!」
【――遅いッ!】
ツカサはジグザグに走り、攻撃を避けると女郎蜘蛛に肉薄した。
【はッ! ご丁寧に弱点まで再現してくれてありがとうよッ!】
ツカサは女郎蜘蛛の弱点である苺を踏み潰す。
女郎蜘蛛は醜いあえぎ声をあげながら崩れた。
【まだだッ!】
ツカサは女郎蜘蛛を足場にして、飛びあがると宙に浮かぶコトワレの身体を前足の爪で引き裂いた。
「無……無常常常常常……消失失失……霧散散散……無残」
コトワレは断末魔の吠え声をあげ、霧散した。
【――これで2体ッ!】
ツカサは立て続けに2体のタテマエを葬った。
だが自分に襲い掛かってくるコトワレと女郎蜘蛛に意識を集中させ過ぎてしまい、結果、背後にいつの間にか忍び寄っていたクチサケザルに気がつくことが出来なかった。
【しまっ……!】
「HAHAHA☆ YOU ARE 迂闊☆」
コトワレを攻撃した直後、まだ着地も出来ていない無防備なツカサの横腹にクチサケザルの重いステッキがまともにヒットしてしまう。
ツカサの肋骨がたまらずに悲鳴をあげた。
【ぐああッ!?】
「ツ、ツカサー!!」
ツカサはまともに受け身を取ることも出来ず、物凄いスピードで鬼カベが作り上げた鉄条網に突っ込んだ。
肉が破れ、血が噴き出す。
そして傷口から鬼カベが作り出した毒霧がしみ込んできてツカサを苦しめた。
【うぐっ! ああああーーッ!!】
「ツカサ! しっかりして!」
ツカサは苦痛をこらえ、銀に叫んだ。
【ぎ、銀! お前はこっちに来るなッ!】
「で、でもっ!」
【俺は大丈夫だ。こんな攻撃、何でもない……だから、お前はそこで大人しく俺を待っていろ】
ツカサの言葉は明らかに虚勢だった。だがそうだと分かっても、銀はツカサの言葉を信じ、今すぐ彼の元に駆け寄りたい気持ちを抑えた。
ツカサは身体に食い込んだ鉄条網を引きちぎって、すぐに身を起こすと身体を振って血を払う。
そんなツカサにクチサケザルが今度は真っ正面からステッキを振りかざして迫ってきた。
「HAHAHA☆ YOU ARE 終焉☆」
【終わりはお前の方だッ! クチサケザルッ!】
ツカサはミサイルのように加速し、クチサケザルがステッキを振り下ろすよりも早く、がら空きになった胴体に頭から飛び込み貫いた。
【まだだッ!】
ツカサはそのまま勢いを落とすことなく、鬼カベに迫ると目玉を爪で一刀両断する。
核を破壊されたクチサケザルと鬼カベはそのまま砂となり消えうせた。
【はぁ……はぁ……ようやく片付いたか。待たせたな、銀】
ツカサは銀の元に戻ると、彼を再び自分の背に乗せた。
「ツカサ……こんなに血が沢山出て……ごめんね。僕のせいで」
傷つきボロボロになったツカサの姿を見て、銀はまるで自分が怪我をしたように苦しんだ。
だがツカサはそんな銀に不敵に笑う。
【ふっ……むしろ余分な血が抜けて、頭がクリアになったぐらいだ……それに、俺は嬉しいんだよ】
「嬉しい?」
【ああ、俺は銀のホンネとしてようやくこの手でお前を守ることが出来るんだ。これに勝る喜びはないだろう?】
以前、熊野烏丸は言っていた。
言ノ葉の物の怪であるホンネは、自分の歴史を持たない。だが生まれながらにして主と主を守るという力を持っているのだと。
今のツカサは彼の言葉の意味をはっきりと理解していた。自分に取っての生き甲斐は銀なのだ。
【……さあ、面倒な奴らも居なくなったことだし、早くここから脱出するぞ!】
ツカサは飛び上がり、無限目鬼の体内を蹴り上げながら上空の出口を目指した。
【いつの間にか、あんなに出口が狭まっちまってる!】
今や出口は銀を乗せたツカサがぎりぎり通れるか通れない程度までの大きさになってしまっていた。
「ツカサ……」
背中に乗せた銀が不安げにツカサの首にしがみつく。そんな彼を勇気づけるようにツカサは叫んだ。
【大丈夫だッ! 必ず間に合わせるッ!】
ツカサは力を振り絞って加速をしようとした。だが、突如背後から出現した黒いひも状の物体に銀を奪われてしまう。
「あああッ!?」
それは髪の毛だった。いつの間にか2人の背後には無数の目玉が現れていて、そこから真っ黒な髪の毛が伸びているのだ。
無数の目玉はやがて一つになると、ある像を創り出した。
【コイツは……ッ!】
「お、大奥様ッ!」
髪の毛こそ白くないが、その姿は紛れもなく大奥様を模していた。
【お前が銀の束縛の象徴、無限目鬼の核か!】
「オオオオオォォォン……」
無限目鬼は女の悲鳴のような甲高い声で鳴く。
「うっ……くっ……!」
無限目鬼に身体の自由を奪われた銀の身体からみるみる生気が抜けていく。
ツカサは慌てて髪の毛を炎で焼き切ると、崩れ落ちてきた銀を背中で受け止めた。
【おいッ! 銀ッ! 大丈夫か?】
「うっ……」
銀は無限目鬼に生気を奪われ、ぐったりしている。
ツカサは無限目鬼の体内の壁に刺さっていた、ビルの屋上の上に銀を横たえた。
そして迷うことなく、自分の霊気を銀に注いだ。
すると銀は辛そうではあるものの、意識をはっきりと取り戻した。
「ツ、ツカサ……」
【良かった。気がついたんだな。銀】
「う、うん……」
銀はツカサの姿を見て、目を見開いた。
「ツカサッ! その姿はッ!」
ツカサの姿は薄っすらと透けていた。度重なる戦闘で傷ついていたところに、自身を形成する霊気を大量に銀に分け与えたことが原因だった。
「そんな……ツカサ、なんてことをッ!」
【これが俺の使命だ。俺が好きでやってんだから、銀が気に病む必要はない】
「でもッ!」
【……それよりも、今はヤツをどうにかしないとだ】
無限目鬼は意識を取り戻した銀に心が凍える声で鳴く。
「オオオオオオオァァァアアアーーッ!! ギ、ギン……ギン! ギン! ギン! ギン! ギン! ギン! ギン! ギン! ギン! ギン!ギン! ギン! ……」
その声は銀を責めているようでもあった。
『なぜ、私を置いてここから出ていくのか? 私の命を奪っておいて、一人で逃げるのか?』と、無限目鬼は銀に対して激しい恨みの念をぶつけていた。
凄まじい怨念の波に銀は思わず震える。
【……銀、アイツは無限目鬼の核だ。俺では倒せない……俺一人ではな】
「………」
【どうするかはお前が決めるんだ】
ツカサに銀は答える。
「……うん。そうだね。アイツを倒すのはツカサじゃない。僕の意志で倒さなくちゃいけないんだッ!」
決意の声と共に、銀の身体が変化する。
銀は幼く世界に怯えていた少年時代の姿から、現在の青年時代の姿へと成長していた。
「……ツカサ、僕に力を貸してくれるかい?」
【もちろんだッ! 我が主ッ!】
銀の手の中に言ノ葉使いの証である扇子が現れる。
「――我に宿りし、言ノ葉の力よッ! 今こそ神威を見せよッ!」
銀の言葉と共に扇子に光が走り複雑な紋様を描き出す。
同時にツカサの身体も光り出した。
「我がホンネ、葛葉 ツカサよ! 我がタテマエ無限目鬼を切り裂くがいいッ! ……我が後悔、我が嘆き、我が呪われし輪廻をその比類なき爪牙をもって祓い清めよッ!」
【承知したッ!】
銀とツカサは、この瞬間一心同体だった。
言葉にしなくても銀の指示がツカサには理解できる。
ツカサは火球を飛ばし、襲い掛かってくる無限目鬼の髪の毛の触手を焼き尽くした。
そして身を守る術を失った無限目鬼に肉薄する。
【そろそろ孫離れの時間だぜ大奥様……じゃあなッ!】
ツカサは無限目鬼の脳天から足元まで一気に切り裂いた。
「ヒィィィアアアアアウウウウィィィィイイイーーーッ!?」
耳障りな断末魔をあげながら無限目鬼の核は崩れ去る。
「さようなら。大奥様……僕は貴女を殺めた罪は決して忘れません。一生貴女を背負って僕は生きていきます」
銀の頬を一筋の涙がきらめいた。
【――銀ッ! まずい、もう出口がッ!】
無限目鬼の最期のあがきのせいもあり、出口はもうほとんど閉まりかけていた。
【早く俺の背に乗れ!】
「うん!」
銀が素早く背に乗ったのと同時にツカサは出口に向かって走る。
だがどうしても間に合わない。
(そんなッ! あと少しだっていうのにッ!)
もはやか細い光の筋のようになってしまった出口を目の前にして、ツカサは歯ぎしりをした。
もはや脱出は不可能だ。
ツカサも銀もそう思った瞬間……。
「……べっこうあめ! ちとせあめ! キャンディケイン! あ、あと……えーい! なんでもいいからなんか固いあめ! ありったけ出てこーいッ!」
なんとそうくの背に乗ったナルキが飴の柱を出現させ、つっかえ棒をして、出口が閉まるのを防いだのだ。
【お前らッ!】
ナルキの飴によって、出口は再びツカサが通れるギリギリの大きさまで広がる。
だが早くも飴の柱はミシミシという音を立て、ひび割れ始めていた。
「ツ、ツカサ―! 早くー! 早くー!」
「あまり長くは持たないよ!」
【……分かったッ!】
ツカサは一気に出口に向かって駆けだす。
だがナルキたちに、核を失ってもなおも活動を続ける無限目鬼の外身の髪の触手が迫っていた。
「ギャーッ!! ニョロニョロしたのがこっちに来たーッ!? 無理ッ! 今は無理ーーッ!」
「くっ……!?」
ナルキは飴の柱を維持するのに必死だし、そうくはナルキを支えるので精一杯だ。
ツカサもまだ触手を払える距離ではない。
ナルキの身体が今にも触手に囚われそうになる。
と、その時……。
「――閃ッ!!」
間一髪のところで熊野烏丸の背に乗ったキヌが鮮やかな剣技によって触手を一刀両断した。
「呵呵呵ッ! 乗り物として扱われるのは慮外千万だな。が、甘んじて受け入れよう! 我は『天才』ゆえな!」
迫りくる触手を全て切り伏せると、キヌはギリギリまで無限目鬼の出口に迫って、ツカサたちに向かって、何かを垂らす。
「……ほら葛葉ッ! こいつに早く捕まりなッ!」
「これは……」
それはツカサがいつも身につけていたマフラーだった。
かつて銀が母からもらい、ツカサに手渡した2人を繋ぐ絆の証だ。
【銀ッ! マフラーで身体をしっかり固定しろッ!】
ツカサは銀に指示すると、キヌたちに向かって一気に引き上げるように頼む。
【――麝香猫ッ! 熊野烏丸ッ! 銀を頼んだッ!】
「ツカサッ! 君はッ!?」
【俺は……まだ一仕事残ってる】
核を失い崩壊し始めた無限目鬼は暴走していた。
生き物の臓腑を思わせる壁には再び無数の目玉が出現し、そこから髪の毛のような触手が伸び始めている。
銀が安全に外に脱出するまで、出口付近でコイツらの相手をする必要があった。
「そんなッ! ……ダメだ。ツカサ、君はもう……」
霊力のほとんどを失っているツカサの限界を本体の銀が分からないはずはない。
それでもツカサは銀の安全を何よりも優先した。
【銀、俺はお前のホンネだ。自分の使命を全うさせてくれ。頼む……大丈夫だ。俺は必ずお前の元に帰るから】
「ツカサ……」
銀の身体がキヌたちによって一気に引き上げられる。
「待っ……ツカサァーーッ!!」
銀の声が段々と遠くなる。ツカサは彼に背を向けると最後の戦いに構えた。
【さあ、来いッ! ……無限目鬼ッ!】
無限目鬼の触手をツカサは爪で切り裂き、牙で噛み千切る。遠く、銀に迫るものは火球を飛ばし、焼き切る。
ツカサの心にあるのはただ一つの願いだ。
【今度こそ、俺は銀の未来を守り抜くッ!】
力を振るう度、ツカサの身体は希薄になっていく。それでも一切躊躇することなくツカサは戦い続けた。
そんなツカサに無限目鬼も最後の猛襲を仕掛けてくる。
そしてようやく銀が無限目鬼の口から外に出て、キヌたちの手で救い出されたので、ツカサも後を追おうとした瞬間……。
突如出口に無数の咢が現れ、脱出する直前のツカサに一斉に喰らい付いた。
(――あっ……!)
ツカサは自分の中で大事な何かが切れた音を聞いた。
ツカサは霊基の核である大きな尻尾を無限目鬼の攻撃で失った。それは人間で例えると『致命傷』だった。
自分の命の源が絶たれ、急速に零れ落ちていく……だが渾身の力を振り絞りツカサは高く咆えた。
【……往生際が悪いんだよッ! 消え果て、輪廻の彼方へと失せろッ! 俺のタテマエ……無限目鬼ッ!】
ツカサの生み出した大量の炎で無限目鬼の体内は紅蓮に染まると、そこからどんどん炭化していき、崩れていった。
【ハハハ……やったな……】
ツカサは無限目鬼に止めを刺したことを確信すると、そのまま意識を失い、出口から落ちていった。
と同時に無限目鬼の出口は完全に閉まり、街中を真っ白でまばゆい光が覆う。
今や、街を外界から隔てていた光の壁も完全に消失していた。
こうして稀代の言ノ葉使い、葛葉 銀が生み出した恐るべきタテマエ・無限目鬼は、白光の中に滅び去ったのである。
「――サ……カサ……ツカサッ! ツカサッ! しっかりッ! お願いだ。目を開けてくれッ!」
ツカサは自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。
「ツカサッ!」
ツカサは自分に縋りつき泣く銀に何か言葉をかけなければと思ったが、もはや声をあげることも出来なかった。
「ツカサ……ごめんね。僕のせいで、やっぱり僕は、大事な人を……たった一人のホンネの君を傷つけて、苦しめただけだッ!」
銀は慟哭を聞きながらツカサは思う。
(銀、それは違う……俺は満足だ。本当に満たされた気持ちなんだよ。自分が生まれてきた意味を知り、大事な者たちをこの手で守り抜くことが出来たんだから)
それはホンネにとって最上の……そして恐らく人にとっても幸せな終わり方の一つだろう。
そんなツカサの気持ちが伝わっているらしい。
他のホンネたちは、別れの悲しみをこらえながらも、彼を誇らしげに見つめていた。
ツカサは銀にせめて自分の気持ちを伝えたいと、最期の力で身体を起こそうとした。
「ツカサッ!?」
銀が慌ててツカサの前足を握る。銀の涙がツカサの毛を濡らした。
――そして奇跡が起きた。
「えっ……その姿は……?」
最期の瞬間、ツカサは人間の姿を取り戻していた。
相変わらずツカサは声を出すことは出来なかったが、それでも儚く消えゆく手で銀の手を握り返した。
(――銀、せっかく自由になったんだぜ? なら今お前がするべきなのは、そんなしけたツラじゃないだろう?)
「ツカサ……」
言葉は無くとも、銀にはツカサの気持ちが流れ込んでくる。
ツカサの手のひらを通して、彼が今、いかに幸福なのかということが、ようやく銀には理解が出来た。
(俺は本当に幸せだ。もう銀は一人ぼっちじゃないんだからな)
「……えっ?」
見れば、律たちが遠くからこちらを目指して走ってくるのが見えた。
無限目鬼が遺した瓦礫の山や危険をものともせずに、彼女たちは一心不乱にツカサたちに向かってくる。
(……アイツらは俺が大狐になってもあっさりと受け入れた変な奴らだからな……銀も気に入るさ。きっと平凡で最高に楽しい毎日がお前を待っている。全てはこれから始まるんだ……頑張れよ)
「……ツカサ、ありがとう。本当にありがとう」
銀は泣きながら笑みを浮かべた。それはお狐様として祀られていた頃に浮かべていた虚ろな笑みではない。年相応の普通の青年らしい心からの笑みだった。
銀の笑みを見て、ツカサも少しひねくれた、それでいて温かい微笑みを浮かべる。
その時丁度、律たちもツカサたちの元へ息を切らせながら到着した。
「葛葉! 馬鹿ッ! 何消えそうになってんのよッ!」
「葛葉ッ! 笑えない冗談はやめなさいよッ!」
「ツカサさん、しっかりしてください。こんなお別れは嫌です! 私、まだ貴方に何も大事なことを言っていないのに!」
「お兄ちゃん! 嫌だよ! 消えないで!」
ホンネの本体の少女たちはボロボロと涙を流しながら、ツカサとの突然の別れを悲しんでいた。
いや、本体の少女たちだけではない。
ナルキ、それにいつの間にか子供の姿に戻ったカラス丸は本体同じように声をあげ泣いている。そうくやキヌもどうやら目を赤くしているようだった。
(ああ……なんて贅沢なんだろう。俺はこんなにも大勢の愛すべき者たちに囲まれて逝けるんだ。良かった……じつに良い人生だった……)
ツカサはこれから始まる銀、そして仲間たちの新たな幸福と未来を夢見てゆっくりと目を閉じた。
「――ツカサッ!!」
どんどん儚くなるツカサの身体を銀は掻き抱いた。
「……ツカサ、君の想いは受け止めたよ。でも、やっぱり君が居なくなるのは嫌だッ! どうしようもなく悲しいよッ! 寂しいよッ!」
律たちも泣き崩れる。
やがてツカサの身体は完全に消え、光の粒子となった。
「ツカサ……うわあああああーーッ!!」
銀は光となったツカサの最期の温もりを確かめるように光の粒子を抱きながら泣いた。
すると変化が起きる。ツカサの欠片たちが、空に舞い上がり、清らかな光を放ちだしたのだ。
「この光は……!?」
目を開けていられないほどの光の本流。
それが収まると銀たちの目の疑う光景が待っていた。
「これは……雪? ……いや、桜の花弁だ!」
今は真冬でついさきほどまで葉すら枯れ落ちていたというのに、一瞬で周囲の桜の樹が満開になっていたのだ。
淡く白い雪のような輝きをした桜の花弁は、銀たちを優しく包み込むように、はらはらと舞う。
「これは……ツカサが?」
「……最期にようやく『粋』ってもんを身につけたようだね」
「ああ……綺麗だ」
「うん。すごく優しい色だね」
「まるで夢を見ているみたいだ……」
仲間たちもツカサの最期の別れを、いつまでもいつまでも、泣いて笑い合いながら見つめていた。
――君がこれを読んでいる頃、僕がどこで何をしているのか? 分からない。本当にこの手紙が君に届くのかすらも怪しいと思っている。
それでも僕は心優しい君に、今までの感謝の気持ちを込めて、手紙を綴ることにした。
……『元』言ノ葉使いだというのに、恥ずかしい話だが、僕は誰かに向けて言葉を紡いだことなどほとんどないから、上手い文章になるかは分からない。だがどうか勘弁して欲しい。
ツカサが最後に僕たちに見せてくれた奇跡。
真冬だというのに一夜にして満開になり、そして散っていった幻のような桜は、いつの間にか街の人たちから『葛葉桜』と呼ばれ、一連の出来事とまとめて『葛葉桜事件』と呼ばれるようになった。
事件後、一般の人々は無限目鬼のことを記憶していなかった。
突如街のあちらこちらが崩壊した(ように見えた)ため、一時、この怪奇現象を取材しようと大勢のマスコミが街に押し寄せることになった。
だが、鹿乃川さんや鈴乃音さんの家が、知らないうちに裏で対応してくれたらしく、あっという間にマスコミたちは姿を消していった。
……大奥様を始め葛葉家の関係者以外に、死傷者が出ていなかったというのもマスコミが早急に退散したことと関係しているのかもしれない。
今ではすっかり街は元の落ち着きを取り戻している。
……少し話が前後してしまうが、あの事件から鹿乃川さんたちがどうなったのか、きっと君も心配に思うだろうから、ちゃんと書いておこう。
まず鹿乃川さんとナルキくんだが、彼女たちはツカサが居なくなった後、ずっと泣いていた。
僕はあまりに鹿乃川さんが泣き続けるので、彼女の大きな目が零れ落ちてしまうのではないかと心配したほどだ。
だが、泣いて泣いて、泣き尽くした後の、鹿乃川さんは強かった。
「私は何も知りませんでした。ツカサさんのことも、葛葉家のことも……せめて先に何かを知っていれば、こんな結果にはならなかったのかもしれません」
鹿乃川さんは自分が葛葉家を知ることの出来る立場にいたのに、今まで知らなかったことを恥じているようだった。
僕は葛葉家は闇が深い家なので、当然だと説明したが、彼女は一度決めたら決して折れない人だった。
「……まだ私には知らないことが大勢あるのです! もっと見聞を広め、柔軟な思考を手に入れなければ!」
そう決意した鹿乃川さんは今まで以上に勉強をするようになった。
……と言っても、自分で何を学ぶかを自由に選びながら勉強をする鹿乃川さんはとても生き生きとしていて、楽しそうだ。
ナルキくんもそんな主の頭が働くようにと、糖分の差し入れを欠かしていない。
次に鈴乃音さんとキヌさんだが、彼らはツカサが居なくなった後、実にさっぱりとしていた。
「――ま、仕方がないんじゃない? 葛葉もラスト、すごいいい笑顔だったしさ。納得するしかないじゃん……つーか、あたしにはあんな笑顔、一度も向けてくれたこと無かったんですけど!? どうかと思うんですけど!」
鈴乃音さんは事件の次の日にはそんな冗談を飛ばして、茶道の稽古に行くくらい普通の状態に戻っていた……表面上は。
事件後、しばらくの間、鈴乃音さんがいかにアイメイクを濃くしても、目蓋の張れをちっとも隠せていなかったということに僕たちは全員気がついていた。
もちろん彼女のホンネのキヌさんも分かっていただろう。でも彼女が自分の悲しみを表に出さないと決めたのなら、それに水を差すのは野暮というものだ。
僕はそんな鈴乃音さんの強さを尊敬した。
事実、鈴乃音さんの心の強さと、からっとした明るさは、慣れない学生生活を始めた僕をとても助けてくれた。
狗谷さんとそうくくんだが……狗谷さんは、ある意味、ツカサが居なくなったことで一番激しい感情を見せていた人かもしれない。
彼女はとにかく怒っていた。
「馬鹿ッ! 馬鹿ッ! 馬鹿ッ! 葛葉の馬鹿ッ! 最低ッ! 最悪ッ! 本当にありえないッ! 勝手にいきなり消えて何様のつもりよッ!」
狗谷さんはありとあらゆる言葉でツカサを罵った後、息が切れたのか呼吸を荒くしながら再び怒り出し、そして同時にポロポロと涙を流した。
「……やっと、やっと銀さんと再会出来たんじゃない。ようやく家族で一緒に暮らせるっていうのに……アンタが消えてどうすんのよ……馬鹿」
狗谷さんの怒りほどではないが、そうくくんもツカサに対して少し怒っているようだった。
そんな彼らを見て、僕はいかにツカサが仲間から大事に想われていたのかを知った。
ちなみに狗谷さんの激しい怒りは、ツカサにだけ向けられていたようで、彼女は僕や他の友人に対してはさほど攻撃的な態度は取らなかった。せいぜいそっけない態度を取るぐらいだ。
鈴乃音さんいわく、どうやら狗谷さんは『ツンデレ』というものらしい。
……最も、そんなツンデレの狗谷さんも今では随分柔らかな気配になった。
犬のクロと一緒に鈴乃音さんの屋敷に住み込みで働くことになったからだ。
狗谷さんのお父さんは身体が弱っていて、半ばアルコール依存症だったこともあり、こちらは鹿乃川さんの一族が経営する病院でケアをすることになった。
最初狗谷さんは入院費用のことを心配していたが、どうやらそれは鈴乃音さんが『出世払いで☆』と言って建て替えたらしい。
……狗谷さんは以前、誰にも頼ることが出来ず、差し出された手を跳ね除けることしか出来なかったと聞くが、今ではちゃんと友人の好意に素直に甘えることが出来るようになった。
だが、時折鈴乃音さんが狗谷さんにメイド服や水着など、際どい衣装を着せて遊ぶので、それは勘弁してほしいと溜息をついていた。
そんな彼女をそうくくんは人型になったり、犬のクロになったりと姿を使い分けて支えているようだ。
空とカラス丸は……君の想像通りだと思う。
ツカサが居なくなって、2人とも、しばらくの間ワンワン泣いていた。
最愛の妹とそのホンネが涙にくれる姿を見るのは、僕にとってとても辛い事だった。
だが僕の慰めを必要とせずに、空たちは自分で立ちあがった。
「……いつまでも泣いていたら、ツカサお兄ちゃんに笑われちゃうもんね!」
空はツカサももう一人のお兄ちゃんとしてそのまま愛することに決めたようだ。
僕は空がそんな風に考える女の子に成長してくれて、とても嬉しい。
だが彼女とカラス丸の成長は、こんなところでは終わらないだろう。
空はツカサとの再会を諦めておらず、いつか来るその日に向けて一層激しく修行をしているからだ。
その甲斐あって、カラス丸は以前よりも少しだけ大きくなり、ほんのちょっぴり大人っぽくなった。
……もっとも背が伸びたカラス丸に対し、空は『ワタシより大きいなんて生意気だ!』と言って喧嘩をしていた。
カラス丸が熊野烏丸に進化するのには、もう少し時間が必要かもしれない。
最後に僕、葛葉 銀について語ろう。
僕は、あの事件の後、言ノ葉使いとしての能力のほとんどを失ってしまった。
本当に普通の青年になってしまったのだ。
事件後、一緒に暮らせるようになった父さんと空にも原因は分からないようだが、僕はツカサが僕の願いを叶えてくれたのだと思っている。
お陰で僕は今、本当に幸せだ。
ずっと会いたかった家族と再会出来たし、新たに出来た友人たちもとても僕に良くしてくれる。
僕は周りの景色がこんなに色鮮やかだったのかと驚きながら毎日を本当に楽しく過ごしているんだ。
でも、ふとした瞬間に思ってしまう。
『今ここにツカサが居たら、どれほど素晴らしいだろうか』……と。
学校の帰り道、皆で一緒に買い食いをしている時、空の修行に付き合っている時、父さんと一緒にご飯を作る時……僕は今でも日々のふとした瞬間に、ツカサの面影を追ってしまう。
そしてその度に、目頭が熱くなるのだ。
だが僕は泣かない。
僕は、空と同じように、ツカサに会うことをまだちっとも諦めていない。
だから次に僕が泣くのは嬉し涙だ。
それにツカサは教えてくれた。僕が大事な人を想い、胸が張り裂けそうになるのは僕が犯した罪の証なのだ。
僕は決して自分の犯した罪を忘れない。
どれほど重く感じても、ずっと背負っていく。
そして一歩ずつ、この世界に自分の足跡を残し、生きていくと決めた――。
「――銀お兄ちゃん! もう家、出ないと待ち合わせに遅れるよー?」
銀の部屋のドアが慌ただしくノックされ、外から空が声をかけてくる。
「……本当だ。もうこんな時間だったのか」
「そうだよー! 早くー!」
まだ書き足りないことが沢山ある。銀はそう思い一瞬悩んだが、すぐにペンを置いた。
「……まあ、いいや。続きはまた今度書こう。時間なら、たっぷりあるんだから」
「銀お兄ちゃーーんッ!」
「銀ーッ! 早く、早くー!」
せっかちな空とカラス丸は一足先に家を出たらしい。今度は家の外から声がする。
「……今行くよー!」
銀はバッグを取ると、慌てて空たちの後を追った。
季節は春。
木々は芽吹き、花が咲く。鳥や動物たちも新たな命を予感させる季節に浮かれているようだ。
そんな心躍る良き日、銀と空、それにいつもの仲間たちは舞から誘いを受けていた。
今日はいよいよ舞が鈴乃音流の茶名をもらい、そのお披露目の茶会が開催される予定なのだ。
本来の鈴乃音流であれば、絢爛豪華な茶室でお披露目会を行うはずなのだが、今回は舞の強い希望で野点となった。
場所は、あの『葛葉桜』が咲いた桜並木だ。
きっとこの穏やかな天気であれば、あの時と同じように桜は美しく花を咲かせているだろう。
想像するだけで、銀の顔は自然と顔がほころぶ。
銀はバッグの中から傷だらけのヘッドフォンを取り出した。
これは『葛葉桜事件』以降、奇跡的に見つかったツカサのヘッドフォンだった。
今の銀は、自ら音を閉ざす必要はない。
だがこれはツカサと自分を繋ぐ新たな絆だった。
確かに彼がこの世界で暮らしていた証をそっと指で撫でる。
「……きっとまた会えるよね」
何気ない銀の呟きに答えるように、どこからか淡く白い桜の花弁が飛んできて、彼の頭や肩を愛おしげにくすぐる。
やがて銀がヘッドフォンをつけ、空と共に走り出すと、桜の花弁は空を舞い、どこまでも高く昇りながら、蒼穹へと吸い込まれていった――。
~『言ノ葉Project』了~