「ツ、ツカサさん……?」
「こ、これはちょっと冗談きついんじゃない?」
「嘘でしょ……?」
「ば、化け物だぁッ! 狐の化け物だッ!」
「ひいいぃぃーーッ!?」
突如姿を現した大狐の姿に広間は大騒ぎになった。
逃げ惑う人々の中には、狐の面をつけた葛葉家の人間もいるようだ。
「お、大狐だ!」
「あの忌まわしき獣が再び現れたッ! 助けてくれぇーッ!」
人々が悲鳴と泣き声をあげる。
あまりの事態に仲間たちが戸惑っている中、純白の青年・銀だけはツカサの身を案じていた。
「ツカサ! 大丈夫か!? しっかりしてくれ!」
【うっ……大丈夫だ】
「ツカサ……意識はちゃんとあるんだね」
【ああ】
不思議なことにツカサは大狐の姿をしていたが、声は人間の頃と変わらないままだった。
「良かった……ツカサ」
銀が愛おしそうにツカサの頬の毛を撫でる。その感触に目を細めながらツカサは改めて実感した。
(俺は……葛葉 ツカサは、この葛葉 銀から生まれた。俺は銀のホンネなんだ)
【……久しぶりだな、銀】
「ツカサ……こうして君に会えるなんて夢にも思ってもいなかった。それに空にも」
2人の様子を見て一旦離れた仲間たちが恐る恐る近づいてくる。
「あ、あの……ツカサさん、なのですよね?」
「ちょっ……このデカい狐が本当に葛葉なの?」
「信じらんない……」
律たちは、なおも驚きを隠せない様子だったが、彼女のホンネたちはツカサの変化をあっさりと受け入れていた。
「ふむ……なるほどね」
「ツカサ、僕たちのお仲間だったんだね★」
「どうりで親しみやすいと思ったよ」
「呵呵呵ッ! 然りッ!」
ホンネの言葉を聞いた律たちはようやく落ち着きを取り戻したようだ。
「そ、そうですね! 餓鬼ちゃんたちと同じと思えば、なんてことはありません!」
「葛葉って元から人外っぽかったしねー」
「……言えてる」
【……酷い言われようだな】
口では憎まれ口をたたきながらも、仲間たちが姿を大きく変えた自分を受け入れてくれたことにツカサは内心ほっとしていた。
だが、空だけはまだ不安そうな目でツカサと銀を眺めている。
「ツ、ツカサお兄ちゃんが、ホンネ?」
【ああ。全てを思い出した。俺はこの葛葉 銀のホンネ。大狐だったんだ】
「じゃあ……そっちのお兄さんが、ワタシの本当のお兄ちゃんなの?」
空は呆然と銀を見つめている。銀もまた、ためらいながらも空に向けて愛情を込めた眼差しを送っていた。
「ああ……空、大きくなったね。僕が君を最後に見た時は、ようやく僕の後ろを走ってくるぐらいに小さかったのに」
「銀お兄ちゃん……」
だが、2人の感動の再開は無粋な怒声によって引き裂かれた。
「……あの時の大狐ですッ! さっさと殺しなさいッ!」
混乱から立ち直った大奥様が使用人たちに命じ、ツカサを攻撃し始めたのだ。
「術式部隊は陣を発動させなさい! 残りの者は武器を取り、直接彼奴らを仕留めるのです! 銀と空さえ無事であれば、他の者たちは始末して構いませんッ!」
「はッ!」
大奥様の声と共に葛葉家の屋敷が淡い光に包まれる。
それと同時に、ツカサと熊野烏丸を除く他のホンネたちは、再び苦悶の声を上げ始め、まるで上から巨石に押しつぶされているかのように、床に沈んでしまった。
「うっ!」
「ぐあっ!」
「餓鬼ちゃん!」
「キヌ!?」
「クロ、しっかり!」
【これは……防御結界か!】
「然り。この中では我らの力は、著しく削がれる。一つ一つの術は大したものでは無いようだが、いかんせん数が多く複雑怪奇な紡ぎ方をされておる! これを突破するのは天才の我でも骨が折れそうだわ!」
確かに熊野烏丸も表向きには、いつものように余裕の笑みを浮かべているものの、牙を剥き額には冷や汗を掻いている。
防御結界だけでも性質が悪いのに、ツカサ達に葛葉家の精鋭たちが、それぞれ武器を手にして次々に襲い掛かってきた。
【不味いっ!】
ツカサは咄嗟に仲間たちを自分の身体で包み庇った。だが、そのせいで攻撃に反撃するどころか、逃げることすらできない。
「ツカサ!」
「お兄ちゃん!」
【俺は大丈夫だから、皆大人しくしてろッ!】
「殺せッ! 大狐だッ! 殺せッ!」
「ヤツを殺さねば、私達がヤラれるぞ!」
葛葉家の攻撃は止むどころか、時間を増すごとに激しくなる一方だ。
ツカサには分かっていた。
(こいつら……手練れなんだろうが、攻撃がブレている。恐らく怯えているんだ)
葛葉家の精鋭たちから攻撃される度に彼らの恐怖と憎悪が伝わってくる。
彼らは過去、ここで虐殺の限りを尽くしたツカサの恐ろしさを理解しているのだ。破壊の権化としてのツカサの姿を知っているから攻撃も執拗になり、恐慌状態にもなるだろう。
もしかしたら自分はこの攻撃にじっと耐え、受け止めなければいけないのかもしれないとツカサは思った。それぐらいの罪を、過去の自分は犯してしまったのだ。
それでも今のツカサは、あの怒りの衝動に流されるだけの大狐ではない。守るべき人、仲間がいるホンネなのだ。
何とかして、この場を切り抜けなければならない。
だが近距離から剣や槍で切り付けられ、遠距離では弓矢の猛攻がある。
何よりも防御結界が解かれなければ、ツカサたちには文字通り手も足も出ない状況だった。
【うっ……!】
斧の重い一撃を受けて、ついにツカサの黄金色の身体が朱に染まり始めた。
「ツカサ!? 大丈夫!?」
【も、問題ない……】
大狐と化したツカサの固い毛の前では、並みの攻撃は通用しないが、それでも嬲られるままではいつか限界を迎えるのは明白だった。
そのことを理解していた銀は、自分の周りに結界を張ると、ツカサと葛葉家の精鋭の前に立ちはだかった。
「もう止めてくれッ!」
「お、お狐様!」
銀の姿を認めた精鋭たちは 一瞬、攻撃の手を緩める。
だが、そんな彼らに冷徹な命を下す者がいた。
「……何をしているのです。攻撃を続けなさい」
「大奥様……」
銀は大奥様に向かって懇願した。
「お願いです。大奥様。ツカサは……彼は何もしません。彼には理性があります。人を思いやる心があるんです。あの夜の大狐と彼は違う! 攻撃を止めてくださいッ!」
だが銀の叫びも虚しく、攻撃は再び始まってしまった。
「どうして……」
「あの大狐は討ち取り、空は手に入れる。これは決定事項です。それを邪魔するものは、何人たりとも容赦はしません」
「空をどうするつもりなんですか! あの子は何も知らないんですよ!?」
「何も知らないというのであれば、かえって好都合。新たなお狐様としての調教もやりやすいでしょう」
「お狐様の任は僕が務めます! 今まで以上に大奥様と葛葉家の発展に尽力いたします! ですから、どうか空は自由に!」
【無駄だ! 銀! その婆さんには、お前の言葉は届かないッ!】
「……うるさい狐ですね。卑しいケダモノの言葉は聞くに堪えません」
大奥様が命じると、防御結界がさらに強くホンネたちを締め付け、攻撃も一層苛烈になる。
【うぐあッ!?】
「ツカサ! ……止めてください。彼は僕の希望なんです。遠いあの日に、僕が解き放った最後の望み。彼がこの世界のどこかで、大事な人たちに囲まれて、平凡でも幸せに暮らしていると思っていたから、僕はここまで生きてこられた……彼に罪はない、罪は全て僕にある。だからどうかツカサだけは許してくださいッ! 僕の希望を消さないでッ!」
銀は涙を流しながら訴えた。
だが、それに対して大奥様の返答はあまりに無慈悲なものだった。
「……先ほどからうるさく咆えますね。どうして人の私が畜生であるお前の言い分を考慮しなければならないのです? 希望? 自由? 許しですって? そんなものがお前に用意されているはずがないでしょう。銀、お前はこの葛葉家に栄えをもたらすためだけの道具に過ぎないのですッ! いい加減、身のほどをわきまえなさいッ!」
ようやく振り絞った自分の願いを、十何年間もの間心の奥底に封じ込めていた本当の気持ちを砕かれた銀の瞳はたちまち光を失った。
「そうか……僕はどこまでも許されないのですね。今までも、これから先も、ずっとずっと」
「何を当たり前のことを……分かったのなら、今すぐあの大狐を消しなさい」
だが、大奥様の言葉は銀には届いていなかった。
「僕は自分が人並みの幸せを得ることなど許されないと理解していた。だからツカサに全てを託したんだ。彼を想うことがこの欲にまみれた世界で生きるよすがだった。でも、それすらも許されないなら……希望を抱くことすら出来ないというのなら!」
【銀ッ! それ以上はダメだッ!】
銀からあふれ出す身も凍える気配と耳障りなノイズに気がついたツカサは、彼を止めようとした。だが、仲間を庇ったままでは彼の元に向かうことは出来ない。
「……ならばいい。僕はもう何も見たくない。何も望まないし、何もいらない……故にこの身、この心に広がる暗き虚よ。僕を含めた、この世界の全てを漆黒の闇に沈め、眠らせ給え」
銀の身体から黒い陽炎のように瘴気が漂い、中空に集まると全てを飲み込む巨大な穴となった。
【銀ーーッ!!】
「こ、これは……!?」
『無限目鬼』……突如出現した銀のタテマエは、まず本体である銀自身を飲み込むと、次に葛葉家の精鋭たちや、屋敷を吸い込み破壊しだした。
「うわあああああ!?」
「た、助けてッ!」
飲み込んだ者たちが養分になるのか、無限目鬼は不気味な蠢動をしながらみるみるうちに巨大になる。
やがて穴から闇色の触手が伸び、まるで濡れた女の髪のようにくねりながら、獲物を捕らえ始めた。
「くっ!? こ、これは! ……一時撤退なさい!」
流石に大奥様も分が悪いと思ったのだろう。生き残った精鋭たちに自分の身を守らせると、その場から一目散に逃げ出した。
「オオオオオォォォ……ッ!」
すすり泣きのような雄叫びをあげながら、無限目鬼は周囲を破壊しつつ、逃げた大奥様の後を追っていく。
【銀ッ! クソッ!】
ツカサも今すぐに無限目鬼を追いたいという気持ちだったが、事態はそれどころではなかった。
「きゃああ!?」
「なにこれ!」
「キモイ! うねうねしたのがこっちに来る!」
無限目鬼から伸びた長い触手の魔の手は、今にも仲間たちを捕らえようとしていたのだ。
【クソッ!】
咄嗟にツカサは炎で触手を焼くが、次から次へと触手は増える。 比較的自由に動ける熊野烏丸も自慢の槍でツカサと共に触手を葬るが、このままではすぐにじり貧になるだろう。
【なんとかこの場から離れないと!】
「くっ……!」
ホンネたちを捕らえる防御結界は、大奥様たちが離脱した後も効力が薄れることがなかった。それにより、ホンネたちは主を守ることが出来ずにいるのだ。
「ど、どうしよう! でも、何とか律たちだけでも逃がさなくっちゃ!」
「……せめて、この結界が解かれれば、私たちも動けるんだが」
己の力を発揮できないホンネたちは、口から血が滲むほどの無力感と戦っていた。
だが、そんな彼らをあざ笑うかのように、無限目鬼の触手は迫ってくる。
【しまった!】
「不味い!」
ツカサと熊野烏丸が討ち漏らした触手が、仲間たちの元に向かう。
その時……。
「……解ッ!」
その場に精悍な男性の声が響いた。
と同時に結界は消え、ホンネたちは自由を取り戻した。
「……はあっ!」
「せいッ!」
「チョコの盾よ!」
即座にキヌとそうくが触手を断ち切り、 ナルキが堅牢な板チョコの壁を作り出す。
一時的なものではあるが、触手の攻撃が止んだことで、仲間たちはようやく一息つくことが出来た。
【今の男の声は……】
ツカサの呟きと共に、崩れかけた屋敷の天井から一人の男性が姿を現した。
「すまない。結界を崩すのに時間がかかってしまってな」
【お前は!】
彼の姿を見た、ツカサと空は同時に叫んだ。
「父上!」
【じいや!】
「ツカサ……空、大変だったな。皆よくここまで持ちこたえてくれた」
ツカサと空を親し気に見つめる男性に、仲間たちは混乱する。
「えっ? このおじさんが葛葉のじいや?」
「そして空さんのお父上なのですか?」
「もう訳が分かんない……」
「事情は後で説明しよう……だが、今は一刻も早くここを脱出しなければ!」
見ればナルキが出した板チョコの壁には、嫌な音を立ててひびが入っていた。
【よしッ! みんな、俺に捕まれ!】
ツカサは仲間たちを自分の背に乗せると一気に宙に舞い上がり、その場を離脱したのだった。
葛葉家から脱出したツカサたちは、そのまま屋敷の裏山の頂上まで一気に飛び、身を落ち着けられるスペースを見つけるとようやく着陸した。
【ひとまずここなら、無限目鬼の魔の手も及ばないだろう】
ホンネたち、それに空や空の父はするりと滑るようにツカサの背から飛び降りた。
「ここは……」
【どうかしたのか?】
空の父は一瞬、遠い日に忘れた宝物を見つけたような目をした。
「……いや、何でもない。それよりも、そちらのお嬢さんたちは大丈夫なのか?」
空の父の心配も無理はない。律たちは顔を青くして地面に倒れこんでいた。どうやら普段から身体を鍛えていなかった彼女たちに過激な空中ドライブはいささかきつかったようだ。
「ううう。頭がクラクラします……」
「吐きそう……」
【悪いな。乗り心地まで考慮してやるヒマはなかった】
「それはまあ、しゃーないね。緊急事態だったし……それよりもアレはどうなったの?」
山の頂上からは、街が一望できる。見れば、無限目鬼は葛葉家を壊した時よりも遥かに成長しており、高層ビルを見下ろすまでになっていた。
【あれが無限目鬼の完成形か……】
全て飲み込む暗く大きな虚、そこから伸びる無数の闇色の触手。
そして銀の負の面が色濃く反映されているだろう。無限目鬼の四肢は自ら封じられていて、そのためかそれほど早くは移動出来ないようだ。
だが、動かない足の代わりに髪の毛のような触手を使い一歩ずつゆらりと揺れながらどこかへと向かっている。
(恐らく、あの婆さんを追っているんだろうな)
無限目鬼は周囲を破壊し吸収しながら、本体を苦しめ続けた大奥様を葬るために彷徨っているのだ。
それだけでも脅威なのだが、ツカサがさらに問題だと思っているのは街を取り囲む光の壁だった。
「何……あの壁?」
【あれは恐らく結界だ。あの婆さんを逃がさないようにするために、無限目鬼が創り出した結界……そして、この街の全てを自分の虚に引き込むための障壁なんだ】
「そんな! あれじゃあ街の人が避難できないよ!」
ツカサは以前よりも遥かに視力が良くなった目で、光の壁付近を見つめる。
ナルキの叫び通り、街の住人たちは突如空中に出現した化け物に怯え脱出を試みているらしいが、光の壁に阻まれ立ち往生しているらしい。
「街一つを飲み込む結界だって? そんなこと、可能なのかい?」
キヌの疑問ももっともだ。往々にしてタテマエは自分の領域を持つか、結界を張り、異界化させることで獲物を引き込んで喰らうという習性がある。だが、街一つを異界化させるというのは並みのタテマエでは到底出来ないことだ。
「呵呵呵ッ! 簡単なこと。兄者殿は『並み』の存在ではない。我が主、天才……すなわち、天賦の才を持つ葛葉 空の兄なのだからな」
「『並み』の存在じゃないって……そ、そりゃあ、そうかもしれないけど、それにしても桁外れ過ぎない?」
「……それについては私が説明しよう」
それまで黙っていた空の父が、口を挟んだ。
【じいや……】
「父上」
「すまない。空、ツカサ……それにツカサたちを支えてくれる皆さん。我ら葛葉家の下らぬ因縁に巻き込んでしまって……今こそ全てを話し、明らかにしよう」
空の父はそれから自分の半生と、空とツカサの秘密を語った。
自分は言ノ葉使いとして未熟であったこと。
空と銀の母親が神の御使いである狐だったこと。
母の影響を受け凄まじい力を持つ銀は幼い頃、大奥様に誘拐されたこと。
その時空と銀の母親は殺されたこと。
そして母の死を知った銀の怒りがホンネであるツカサを生み出し、虐殺を起こしたということ……。
長いようで短い空の父の昔話を聞いた一同は、彼になんと言葉をかけていいのか分からず、辺りは静まり返ってしまった。
「……銀と離れ、私は空とツカサにそれぞれ『銀を忘れるように』と術をかけた。そして幼い空を連れて住まいを転々としながら、いつか銀を救出出来ればとチャンスを狙っていた……そんな中、『お狐様ご開帳の儀』という絶好の機会が訪れた。それで葛葉家に張られている結界を崩す術式を乱す準備をしていたんだ」
「だから父上、最近忙しそうだったんだね」
「ああ。だが、まさか空、ツカサ、お前たちまで『お狐様ご開帳の儀』にやってくるなんて……それに銀のタテマエまで現れてしまうだなんて、完全な誤算だったよ」
【それは……俺にも責任がある。俺が銀と接触しなければ……】
「ツカサさんは悪くありません! 悪いのは大奥様です!」
空の父の話を聞いた律は大きな目に涙を浮かべていた。
「大奥様にとって、空さんのお父上は自分の息子、空さんと銀さんは自分の孫ではないですか! どうしてそこまで酷いことが出来るのです!? こんなのあんまりではないですか!」
【鹿乃川……】
「家族には色んな形があるからさ、他人が口を突っ込むことじゃないと思うけど……あえて言わせてもらう。責任っていうのなら、おじさんにもあるんじゃないの?」
愛は空の父を軽くにらみながら言った。それに舞も同意する。
「だよねー。おじさん、なんで葛葉と空ちゃんの記憶を奪ったりしたの? そしたら今みたいな最悪な事態は避けられたのかもしれないのに」
自分よりも一回り以上若い娘たちに非難されても、空の父は反論することはなかった。
「……最もな意見だな。だが、あの時は2人に銀を忘れる術をかけるしかなかったんだ。特にツカサ、お前には」
【何故だ?】
「お前は銀のホンネだ。目を離すとすぐに本体である銀の元に行こうと私から逃げ出そうとしてしまってな……だがいかにホンネといえども、幼いお前が葛葉家に行っても大奥様に捕まるだけ。それこそ最悪の展開だ。そしてそれは銀が最も望まないことでもあった。お前は銀の自由の象徴なのだから。空も同じような理由で記憶を封じるしかなかった……この子は昔からお兄ちゃんっ子だったからな。兄を求める想いが大奥様をおびき寄せるようなことだけはあってはならない」
【なるほどな……まあ、理解は出来るよ】
ホンネは本体を守るために生を受けるのだ。己の使命を全うするために生きているのだから、それを止めるためには確かに記憶を奪うような真似でもしないと無理だろう。
「でも父上、それならどうしてツカサお兄ちゃんを一人で放り出すような真似してたの? ……一緒に育てればよかったのに。そうすればワタシ、自分にお兄ちゃんがいるかもなんて疑問を抱くこともなかったはずだよ?」
「私も出来ればそうしたかった。だがツカサはどれほど人に近くても妖怪だ。人ならざるものなんだ。ツカサがいると、嫌でもそちらの世界のものたちを引きつけてしまう」
ツカサはこれまでの人生を振り返った。
確かに自分は怪しい存在に常に付きまとわれていた。
今考えると自分も怪しい者の一員だったわけなのだが……彼らが空を傷つける可能性は大いにあっただろう。
それにもしかしたらツカサに引き付けられた妖怪たちの気配から、大奥様たちが空や彼の消息を辿ってくるかもしれない。
そう考えれば自分だけは離されて育てられたというのも道理だとツカサは納得していた。
だが、空の父は自分の意見を否定した。
「いや……それは言い訳だな。私は逃げていたんだ。ツカサ、お前はあの満月の晩、暴虐の化身だった。私の右腕を喰らい、全てを喰らった破壊神……私はお前が怖かったんだ。何よりも、お前を見るとあの時の銀を思い出す。絶望しながらも自分の運命を受け入れたあの悲しい笑顔を……私はそれが耐えきれなかった」
空の父はツカサに深々と頭を下げた。
「ツカサ……お前は銀のホンネ、いわば私のもう一人の息子だというのに……ずっと真っ正面から向き合えず、すまなかった」
ツカサはしばらく沈黙していたが、やがて大きな尻尾で空の父を撫でた。
【気にするな。俺がじいやにしたことを思えば、銀から離された後、どこかに捨てられても当然だったろう。それでも事情や思惑はどうであれ、俺はここまで育ててもらった。それについては感謝してるよ】
「だが……」
なおも謝ろうとする空の父の言葉をツカサは遮った。
【これ以上謝るというのであれば、それは銀を取り戻してからにしてくれ……全てが終わった後でゆっくり話を聞くよ】
「ああ、そうだな……」
「銀お兄ちゃん……」
一同の視線は再び街の上空に浮かぶ『無限目鬼』に向けられた。
「どうやら、奴さん、また大きくなったようだねえ」
「ああ……」
「ねえ『無限目鬼』は銀お兄ちゃんのタテマエで、ツカサお兄ちゃんは銀お兄ちゃんのホンネでしょう? ツカサお兄ちゃんの言葉なら『無限目鬼』の中に囚われている銀お兄ちゃんにも届くんじゃないの?」
「……ダメなんだ」
ツカサは無限目鬼が発生した時にも、銀に呼び声をかけ続けていた。だが、それは彼には届かなかったのだ。
「今の銀には俺の言葉は届かない……それぐらい銀の絶望は深いんだ」
「そんな……それじゃあ一体どうすれば……」
その場に重い空気が流れる。
やがて律が沈黙を破った。
「……いったん退いて体勢を立て直すべきでしょう。何も策もなく、あんな化け物に立ち向かうなど、愚の骨頂というもの。然るべき手段を取って、慎重に事を進めるべきです」
律らしい堅実な意見だ。だが、彼女は自分の言葉をすぐに否定する。
「……ただし、それは定石に従うのであればという話です。今回の場合、それでは遅すぎる。あまりにも多くの犠牲者が出てしまいます……それはツカサさんも銀さんも望んでいないでしょう?」
【ああ】
「ならば定石もルールも飛び越えなければ!」
【ルールを飛び越えるか……風紀委員長らしからぬお言葉だな?】
「ええ、そうですね。きっと悪いお友達に影響されたんでしょう」
しれっというと、律は彼女にしては珍しくイタズラな笑みを浮かべた。その笑みにつられたように、舞も明るく言う。
「それじゃあ! 当たってぶつかって何とかするしかないね! だーいじょぶ★ 葛葉ならやれるって!」
いつもと変わらない様子で、舞はツカサの横腹をバンバンと叩いた。
「そ、そうだね! 当たって砕け散るなら、ワタシ得意だし! やるしかないね!」
「呵呵呵ッ! 散っては問題だぞ? 主よ」
そんなやり取りを見て愛は溜息をつく。
「はぁ……結局、策らしい策もないし、行き当たりばったりじゃない……でもまあ、いつものことなのか」
【そうだな】
(そう、いつもと同じだ。行き当たりばったりで、当たってぶつかるしかない。でも俺たちは、それでここまでやってきた。どんな壁も乗り越えてきた。なら……)
【……いつもと同じように、面倒ごとはさっさと終わらせて、銀を連れて家に帰るとするか!】
「おうッ!」
いつもと変わらぬ仲間たちの掛け声が頼もしい。ツカサはいつの間にか自分の口の端に笑みが浮かんでいることに気がついた。
【よし……それじゃあ、オレとホンネは無限目鬼に向かうぞ。残りの連中は、この混乱に巻き込まれた街の人たちをフォローしてくれ】
「ちょっ! 待って! ワタシも一緒に無限目鬼のところへ行く!」
居残りを言いつけられた空は不満を爆発させて、ツカサに噛みついた。
だが、ツカサはそんな彼女をあっさりとはねつける。
【ダメだ】
「なんでッ!? こんな状況なのにワタシをまだ子供扱いするの!?」
【それは違う】
「えっ?」
【空、お前が今まで努力してきたことを、俺は知っている。確かにお前は生まれつきの才に恵まれているだろう。だがそれに甘んじることなく、訓練を続けているお前は紛れもなく天才だ……だから、その力でみんなを守ってくれ】
無限目鬼の影響力はいまや街全体に及んでいる。無限目鬼本体に近づかなくても、十分危険な状況だ。
ホンネから引き離されることになる律たちを守る存在が必要だった。
【空、俺はお前を信頼している。だから……後は頼んだぞ】
「……お兄ちゃんずるいよ。そんな風に言われたら、従うしかないじゃない」
空は拳を震わせ、文句を言いながらもツカサの信頼を受け入れた。
「分かった。こっちは任せて! 街の人は、ワタシたちが守っちゃうんだから!」
【ああ。よろしくな】
「……私には銀さんの気持ちがちょっと分かる。誰にも愛されなくて、世に嫌われた孤独が……葛葉、銀さんのこと助けてあげてね」
愛の真摯な声にツカサは頷いた。
【分かってる】
「……私は、ここから別行動を取らせてもらおう」
空の父の言葉にツカサは思わず尋ねた。
【何故だ? じいやも銀を救うつもりなんだろう?】
「無論だ……だが、どうしても私自身の手で行わなければならないことがある。私でなければ出来ない仕上げが残っているんだ」
ツカサは恐らく先ほどのように結界や術の準備があるのだろうと判断した。
【そうか、分かった。気を付けてくれ】
それぞれが自分の役割を確認し、いよいよ行動に移そうという時にツカサは異変に気がついた。
【無限目鬼が……止まった?】
のろのろとしたスピードだったとはいえ、今までずっと進撃を続けていた無限目鬼は、ぴたりと空中で制止していたのだ。
ツカサたちが山頂で己が決意を固めている頃、無限目鬼からほど近くの地上では大奥様が強固な結界に守られて座していた。
「大奥様! 不可視の陣、ようやく完成いたしました」
「ご苦労」
この陣は姿だけでなく気配すらも遮断する結界だ。この中に居る限り、いかに稀代の天才言ノ葉使いが生み出したタテマエであろうと、大奥様を感知することはできない。
葛葉家から逃げる途中、生き残った術師全員でこの不可視の陣を組み上げさせ、ようやく完成させることが出来たのだ。
(危ない所だった。陣の完成があと5分遅れていたら、無限目鬼に飲まれていたでしょう。後はここから逃げるだけ……ですが)
大奥様は頭上に浮かぶ巨大な無限目鬼を睨み付ける。
(……忌々しいことに、私はここから動けない。この陣は、多くの術師の力を必要とする……私一人では維持するどころか、この場から動くことすら適わぬ……ジレンマですね)
これは葛葉本家でも一部の人間しか知らぬことだが、大奥様は何の力も持たぬ普通の人間だった。
(ああ、本当に忌々しい。憎たらしい。何故、こうも物事が上手くいかないのでしょう……どうして)
大奥様は元は葛葉家の遠縁に当たる術師の家の出身だった。
術師の家に生まれたというのに、何の力も持たぬ彼女は、家族から酷く馬鹿にされ、蔑まれた幼少期を過ごした。
彼女は自分を苦しめる術師が大嫌いだったし、妖怪や怪しいもの全てを否定し生きてきた。
当然、言ノ葉使いとして名高い葛葉家になど嫁に行きたくはなかったが、何の力も持たぬ自分には親の決め事に逆らうことは出来なかった。
葛葉家に嫁いだ後も変わりない。いや、むしろ嫁いだ後の方が彼女の立場は悪くなったかもしれなかった。
生家よりも葛葉家の方が術師としては格上だ。それなのに、何の力も持たぬ嫁を舅も姑も歓迎するはずがなかったのである。
「全く、とんだ厄介者を押し付けられたものだ」
「まあ、一応あの娘の家は、術師として力は強い方だ。あの娘がダメでも、その子供なら万が一の可能性がある。さっさと子供を生ませて、離縁して、そのあとで新しく霊力の強い嫁をもらおう」
……そんな心無い言葉が、彼女本人を目の前にして堂々と交わされる。
夫は優しい人だったが小心者で、親に逆らうことなど到底出来なかった。だからいつもすまなそうに妻である彼女を見つめるだけで、助けに入ってくれることはなかった。
彼女はただ屈辱に耐え、世界を呪うしか出来なかった。
(力が欲しい。力があれば、このような恥辱を味わうことなどないのに!)
やがて息子である保名が生まれた時、彼女は世界に復讐をすることを決意した。
(いいだろう。私は葛葉家をどの家より立派にしよう。霊力がないなら、権力で全てをひれ伏せさせるのだ。私はもはや誰にも侵されぬ。 そのためには何でも利用しよう。そしてどんなことでもしてやろう!)
その後、彼女の舅と姑は次々と病死。
そして息子が中学に上がる前には夫も不審死を遂げるのだが……その裏では彼女の暗躍があったことは言うまでもない。
(そう……私は手を汚してきた。どんな苦痛、苦労もいとわず葛葉家のために尽くしてきた。決して夢を諦めることなく、ようやくこの地位まで上り詰めてきたのだ!)
大奥様の行いを『夢』と呼ぶには余りに歪なのかもしれない。だが人間の心から望みを『夢』というのであれば、それは間違いなく『夢』だった。
(なのに……あと一歩というところで及ばない!)
生まれた息子は大した力を持たないばかりか、あろうことに卑しい獣の妖物にたぶらかされる有様だ。
不幸中の幸いで息子の血を引く孫たちは、葛葉家の神祖に近い力を持つようだが、所詮はケダモノの子なのか、自分の言う事を理解しようとはしない。
その結果が数年前の満月に起きた大虐殺と、今回の無限目鬼の出現だ。
(この窮地、何としても乗り越えなければ……ですがどうやって?)
その時、大奥様はある案を思い付いた。
(……この無限目鬼は、化け狐の子によって生み出されたもの。ならば……)
大奥様は手の空いている召使いに命じた。
「いいですか。今から言うことを実行なさい」
それは悪魔的な案だった。だが今まで己の身を守ることしか考えてこなかった大奥様は何の躊躇もしなかった。
【くそッ! この触手、固いな!】
ツカサたちは静止した無限目鬼を全力で攻撃していた。
タテマエはホンネだけでは消し去ることは出来ない。よってなんとか無限目鬼の中から銀を引っ張り出さなければならなかった。
だが、無限目鬼本体付近の触手は末端に比べてけた違いの太さと強度をしている。ツカサの鋭い牙や爪、そして炎をもってしても触手1本を切るまでに随分と時間がかかってしまっていた。
辺りにはツカサの炎で焼けた触手のたんぱく質の焦げるような嫌な臭いが立ち込めている。
触手以外の胴体部はどうかというと、こちらも同じく凄まじく固い。空を飛ぶことの出来ないキヌやナルキ、そうくを中心に足元から胴体部を攻撃してもらっているが、無限目鬼はちっとも堪えた様子がなかった。
「ダメだ、ちっともハサミが通らない!」
「このままじゃ愛刀が刃こぼれしちまいそうだよ」
「なんだよ! この固さ! 固焼きせんべーの方がまだマシだ!」
【ぶつくさ言ってないで、攻撃を続けろ!】
「おっと! 危ないぞ、葛葉 ツカサ!」
熊野烏丸の声に振り向けば、無限目鬼の虚に吸い込まれる途中の瓦礫の塊が飛んでくるところだった。
ツカサは尻尾でそれを叩き落とす。
【ったく……突然止まったのはいいが、吸い込む力と触手の侵攻は変わらずか……】
無限目鬼は有機物、無機物に関わらず、ありとあらゆるものを吸い込み吸収していった。
それにより一段と大きくなった無限目鬼は、新たな触手を生み出し今度はその触手で周囲の物を捕らえ、虚に放り込んでいくのだ。
【きりがない……どこでもいい、僅かでも突破口が開けば……】
ただやみくもに攻撃するだけしか出来ないが、それでもツカサたちは攻撃を続けた。
すると突如、近くの地上が光りだす。
【なんだ? この光は?】
「こ、この気配はッ!? ……主の身が危ないッ!」
熊野烏丸は身を翻し光の元へと飛んで向かった。と、同時に制止していた無限目鬼もまた活動を再開し出す。
「オオオオオォォォ……」
「うわっ!? なんでコイツいきなり動き出したの!?」
「分からないが、あの光の元に向かっているようだ」
【行くぞッ!】
ツカサたちは光の中心を目指し駆けだした。
するとそこには信じられない光景が広がっていた。
【空ッ!】
「主!」
なんと空が呪符でグルグル巻きにされ、あやしい陣の中央に横たえられていたのだ。
「うっ……お兄……ちゃん……熊野烏丸……?」
何のための陣かは分からないが、既に術は発動しているようだ。それも空の生命力を使って起動しているらしい。彼女の顔色は真っ青だった。
【なんで空がここに……今助け……】
ツカサと熊野烏丸が空を解放するために、駆け寄ろうとしたその時……。
「止まりなさいッ! 化け物共ッ!」
大奥様が空の首元に鈍く光る短刀が突き付ける。
【この婆!】
「止まれと言ったはずです……この娘がどうなってもいいのですか?」
「おのれぇ……! 痴れ者がッ!」
主を盾に取られた熊野烏丸が牙をむき出し怒りを露わにする。
大奥様の卑劣な行動を見て、ツカサは理解した。
きっと同じような手で空は律たちを盾に取られ、捕まってしまったのだろう。
良かれと思って空たちを自分たちから離したが、それが仇となってしまったのだ。
「貴様ッ! 我が主をどうするつもりだッ!」
「この娘は贄にします……後ろを振り返ってごらんなさい」
見れば無限目鬼は再び制止していた。いや、それだけではない。明らかに無限目鬼は苦しんでいた。
「オオオオオアアアアアアーーッ!!」
「あの無限目鬼は、化け狐の子によって生み出された妖物。ならば、同じ化け狐の血を引く、この娘を贄にすれば封じることが出来るでしょう」
「なっ!?」
【そんな馬鹿げた真似を俺たちがさせると思ったのかッ!?】
「これが最善の手段なのです。これ以上、あの無限目鬼の破壊を許すわけにもいかないでしょう? ……嫌らしい化け狐の子、2匹の命で事が収まるというのであれば、上々ではないですか」
「貴様ッ! 我が主を愚弄し、畜生呼ばわりするだけでなく、その命を脅かそうとするのかッ! その罪、万死に値するッ!」
熊野烏丸が大奥様に飛びかかろうとするが、その瞬間大奥様の持つ短剣が空の細い首元に食い込んだ。青白い首に赤い血の筋が流れる。
「私は再三動くなと言っているのですよ……今ここで、この娘の命を絶つのは、枯れ木のような私の腕でも容易いのですから」
「くぅっ!」
【熊野烏丸、ヤツは本気だ。その気になれば躊躇なく空を殺すぞッ!】
「ええい! それぐらい分かっておるわッ!」
他の仲間たちも空が人質になっているので、身動きを取ることが出来ないでいる。
だが、このままではいずれ空の命は術の贄にあげられてしまうだろう。
まさに八方ふさがりだ。
「くっ……あ、ああ、あうぅぅ……!」
空は既に限界だ。
(くそッ! せめて、少しでも、あの婆さんの気が逸れれば……ッ!)
だがツカサたちに向けられた大奥様の殺気は、とても小柄な老女から発せられているとは思えない。
とてもではないが、ツカサたちに空を救出する間など与えてくれるとは思えなかった。
永遠に続くかと思われた緊張感は、一人の男の声で破られた。
「――裂ッ!」
「くっ!?」
男の叫びとともに大奥様の着物の袂が裂け、動揺した彼女は短刀を落としてしまった。
【今だッ!】
ツカサと熊野烏丸は陣の中に飛び込んだ。
【うおおおーーッ!】
ツカサが陣の中に自分の妖気を流し込み、無理矢理術式を破壊する。
そのことで強烈なフィードバックがツカサを襲うが、そんなことは一切気にすることなく、彼は大奥様を口で咥えると宙に放り投げた。
「斬ッ!」
熊野烏丸が空の身体に巻かれた呪符を切り裂くと、空の顔は瞬く間に赤みを取り戻した。
「うっ……お兄ちゃん……熊野烏丸」
「無事かッ! 主ッ!」
【痛いところはないか!?】
「うん……ありがとう。2人とも、きっと助けてくれるって信じてた。それよりさっきの声は……」
「空! 大丈夫か!?」
「やっぱり父上ッ!」
かまいたちの術を使い、大奥様の気をそらしたのは空の父だった。
「大奥様なら、何かしでかすと思っていたが……まさか贄を使うつもりだったとは……最後の最後で同じ発想に至るとはな。皮肉なものだ、それともこれが血のつながりなのか……」
「えっ……父上? 今、なんて……?」
空は父に言葉の真意を確かめようとしたが、キヌの叫びと上空から轟く女のすすり泣きのような雄叫びによって声が消されてしまった。
「葛葉! 無限目鬼が再び動き出したよ!」
空を使った封印の術が解けたことで、無限目鬼は再び大奥様をめがけて進撃を開始したのだ。
「オオオオオォォォ……ン!」
【ナルキ! 麝香猫! 黒鉄! お前たちは無限目鬼を食い止めてくれ! 俺と熊野烏丸は空とじいやを安全な場所まで非難させる!】
「ラジャー!」」
「やれやれだ」
「気を付けてね。ツカサ」
【ああ、お前たちもな】
仲間たちの姿を見届けた後、空と空の父に向き直った。
【さあ、さっさと安全な場所まで避難するぞ】
「うん!」
空は嬉しそうにツカサの背にしがみついたが、彼女の父は何故かツカサに投げられたことで意識を失っている大奥様の隣に立つ。
【その婆さんも連れていくのは構わないが……紐かなんかで括って、これ以上悪さ出来ないようにしておかないとだな】
「いずれにせよ、迅速な離脱を勧めるぞ。ここは人の身にはあまりに危険だからな。なんだったら、そのいけ好かない老女は我が逆さ吊りにして運んでやろう。呵呵呵ッ!」
主の安全を確保して余裕が出たのか、熊野烏丸はいつものように不敵な笑みを浮かべる。
だが……。
「――その必要はない」
空の父の足元で再び術式の陣が起動し、光を放つ。
【なっ!? どういうつもりだ! じいや!】
「私はここで贄となり、無限目鬼を封じ込める」
「何を言ってるの!? 父上!」
「確かに銀は神狐であった母、芒蘭の血を色濃く継いでいる。その銀から生まれた無限目鬼を完全に封じるというのであれば、同じ神狐の血を引く空を贄にせざるを得ない。だが……単純にあの無限目鬼の威力を縮小し銀の意識を覚醒させるだけなら、私が贄にあがるので問題ないはずだ……銀は私の息子でもあるのだから」
「うっ……愚かな。お前の力如きを贄にした程度で、本当にあの化け物が止められると思っているのですか?」
いつの間にか意識を取り戻したらしい、大奥様が空の父を嘲笑う。
だが空の父はそんな嘲りに憤ることは無かった。
「確かに、私一人の命では、無限目鬼の力を封じるのに、心もとないやもしれぬ。だから大奥様……貴女もここで私と一緒に贄になるのだ」
「なんですってッ!?」
「いかに否定しようと、銀は貴女の孫であることは間違いない。貴女の命も贄とすることで血族の封印はより強固な物になるだろう」
「何を馬鹿な……ッ!」
【よせッ! じいやッ!】
「止めてッ! 父上ッ!」
ツカサと空は懸命に父に訴えるが、彼の決意は揺るがなかった。
「私は銀が無限目鬼に飲まれた時から、この結末しかないと思っていた。いや、もっと早くからこうするべきだったのだ。あの子の罪は私が背負うべきだった。そうすれば銀も無限目鬼などにならずとも済んだのに……」
空の父が呪文を唱えると、一層結界の光が増した。
「父上ッ! 嫌だッ! ワタシは父上を犠牲にして助かりたくなんかないよッ!」
空は泣きながら父を止めようとするが、先ほど封印の陣で力を奪われた彼女は発動し始めた結界に近づくことすら出来ないようだ。
【じいやッ! クソッ! こうなったら、力づくでも止めて……!】
「悪いな、ツカサ、熊野烏丸、しばらくそこで大人しくしていてくれ」
【ぐわっ!?】
「がっ! こ、これはッ! 捕縛術!?」
ツカサと熊野烏丸の身体が高圧電流を流されたように痺れる。
「私の力ではそう長い間、君たちを止めておくことは出来ないだろう。だが、この封印の陣が完成するまでの時間稼ぎ位なら出来る」
【じ、じいや……! 止せ! アンタが死んだら、銀は……!】
「……きっと悲しむだろうな。あの子は優しい子だから。だが、それでもこうするしかない……葛葉家の悪しき流れは私がこの手で絶たねばならないのだ。後は、銀や空、そしてツカサ、お前たちが時代を切り開いていってくれ」
空の父は全てを悟った柔らかな笑みを浮かべた。
「おのれ……このような愚かな真似が許されると思っているのですか!?」
「私を恨むというのであれば、好きなだけ恨むといい。残り僅かな余生の全てで私を呪い続ければいい。だが、どれほど恨み、呪っても貴女の野望はここで潰えるのだ! 貴女の許しなど、私は必要としていない……共にここで果てるが良かろう!」
「くっ……保名ッ!」
「さらばだ。ツカサ、空……達者でな」
「父上ぇぇーーッ! いやぁあああーーッ!」
だが一同は忘れていた。空の父よりも、ツカサよりも、誰よりも大奥様を許していない存在を。
神狐の血を引く化け物を、同じ神狐の血を引く娘の命で封じるというのは、確かに合理的で最善の手段だったのかもしれない。
だが、人には心があり、感情があり、人情がある……それは化け物にも同様だ。
そのことをたった一人で『夢』を追いかけてきた大奥様は気づきもしなかった。
空を贄にあげるということは、文字通り悪魔の所業。
そして悪魔とは常に対価を必要とするものなのだ。
「イイイイイイァァァアアアーーッ!!」
怨敵を見つけた無限目鬼は、絹を裂く女の悲鳴のような甲高い叫びをあげながら襲いかかってくる。
無限目鬼からの伸びる無数の触手が本体の激情を代弁するかのように鋭く、早く、ツカサたちの身体を捕らえようとしていた。
「きゃああッ!!」
「主ッ!」
空は咄嗟に熊野烏丸が庇い、宙に逃げることが出来た。
だが……。
「ひいいいいぃぃぃーーッ!?」
大奥様は逃げる間もなく触手に捕らえられた。
「ああああぁぁぁーーッ!? い、痛いッ!! 痛ぁあああーーーーッ!!」
触手の抱擁は老女の身体中の骨を砕き、枯れ木が折れるような音が響く。
その拍子に彼女が被っていた狐の面が地面に落ち、砕け散った。
そして大奥様はそのまま一気に無限目鬼の虚の中に吸い込まれていった。
(なっ!? どうして私が!? ここまでようやく至ったというのにッ! まだ、力を得て、こんなところで、私は、私はぁぁぁあああああああああああーーッ!!)
それが大奥様がこの世で最期に思った出来事だった。
大奥様を飲み込んでも、無限目鬼の絶望と怒りは収まることがないのだろう。
かの触手は、空の父の身体をも潰し、虚に引き入れようとしていた。
「ぐあっ!」
【じいやッ! ……頭を庇えッ!】
空の父が無限目鬼の虚の中に広がる闇に吸い込まれそうになる瞬間、間一髪のところで間に合ったツカサは触手を食い破り、彼の身体を解放した。
そして宙に投げ出された空の父を、熊野烏丸がキャッチする。
【うっ!】
だが、今度はツカサが触手に囚われてしまった。
しかも、四肢も尻尾も口も封じられ、身動きを取ることが出来ない。
「お兄ちゃんッ!」
「ツカサッ!」
「葛葉 ツカサ!」
ツカサはそのまま、無限目鬼の虚の中へと吸い込まれてしまった……。