空が乱れ、淀む。
時間の流れが狂い出す。
学園の敷地の只中に巨大なバケモノが屹立している。
先程まで辺りを覆っていたもやもやとした淀みは中空にまで立ちのぼって広がり、まるでバケモノがその淀みを纏っているかのようだ。
ヘッドフォンが切っ掛けではない。ヘッドフォンは単に、ツカサの能力に蓋を掛けておくためのものだ。
たとえ蓋が外れようとも、即座に問題が起こるわけではなかった。
けれど今、現実にバケモノは誕生してしまった。
蓋がないところに言葉を注がれては、そこから怪異が溢れる。
ツカサは舌打ちした。
門の前に並んでいた皆は倒れた。気を失ったか、それともバケモノの手下の影響で眠ってしまったのか。怪我人はいないようで、それだけはツカサにとって救いだった。
無関係な人間を巻き込みたくはなかった。
「来い! 俺はここだ!」
ひとまず一旦、あえてバケモノの前に飛び出して注意を引く。優先的に狙われるのは、バケモノを呼んだ自分自身だ。
バケモノは、ツカサの敵だ。バケモノにとっては、ツカサが敵だ。
バケモノが操る幾本もの鎖は執拗に、ツカサだけを狙い打つ。打ちつけられたそれはツカサの脇腹をかすめ、腕をかすり、足下を抉る。
視界が紅い。
これは血の色か、空間そのものの色か。ツカサは考える。どちらにせよ、危ない。
さらに考える……。
あの『タテマエ』のバケモノの由来となった者のこと。
見当はついているが、はぐれてしまった。早々に見つけ出さなければ確実に、そちらにも危害が及ぶ。
教室から舞い出た机が宙に浮いている。鉄細工を浮かべて操作するのは、このバケモノの固有能力らしい。
「どれだけ鬱憤が溜まってたんだ?」
バケモノに問うてみるが、返ってくるのは意味不明の吠え声と、乱暴な攻撃だけだ。
「規規則則改改正正遅遅延延問問題題――」
その敵の声、どこかで聞いたような文言ではある。
飛び交う鎖や机をどうにか避けながら、門の消えた校門を抜け、他人の姿がないグラウンドにツカサは出た。
物陰に隠れ、呼吸を整える。バケモノは一度、ツカサを見失ったようで立ち尽くしている。
「そろそろ俺も思い出してきたか……誰だか知らない誰かの、大事な言葉を」
ツカサは痛む傷を拭い、あえて、笑む。
「怪物め、そのまま迷っていろ。今度はこちらから存在を思い知らせてやる」
いつまでも逃げているつもりはない。
戦う。
ツカサには、戦う手段があった。ただし今のままでは足りない。武器が必要だ。バケモノの由来者の協力が必要だ。
そこに走り出てきたのは、
「何事なの!? あっ……」
風紀委員の彼女だった。その表情にはまだ淀みが掛かってうまく見えない。だが、彼女がいるのはまさに、バケモノの足元、直下だった。影を落としているそいつに気づき、見上げて驚愕している。
「なんなの、これ!」
動揺して見回して、委員娘はツカサを見つけて訊く。
「訊いてどうする」
「こんなもの、どうしようも」
彼女はバケモノの威容を見つめながら――薄笑いを浮かべていた。
なるほど。ツカサは理解した。確信した。
そうだ。今ここで、『言ノ葉』のルールに従うならば。
あの『タテマエ』のバケモノが生んだ、遅延した時間、淀んだ空間の中で平然と走っていられるのは、ツカサと、もうひとりしか存在しないはずだ。
「由来者」
「は?」
「お前だな、このバケモノを望んだのは」
「違います!」
風紀委員としての腕章を手繰り上げながら、ムキになって彼女は拒否する。
一方、隆起したバケモノは、破壊の幻影を展開する。学舎の硝子が割れ、鐘は崩れる。それは直接的な暴力ではないが、明確にイメージがあった。破壊衝動。約定破り。秩序の否定。
暴れろ。もっと壊せ。すべて無くしてしまえば、いっそ楽になる。
バケモノは誰かの願望を叶える――、
「やめなさい!」
突然彼女がバケモノに向かって叫んだので、ツカサは面食らった。
「おい、言うこと聞く相手だと思うか!?」
「知らないけど、でも」
彼女は言い募る。そこにゆっくりと彼女に首を向けたバケモノが、
「中止中止中止――」
唸る。そして、
「――否定」
振りかざした鎖は、彼女をも襲った。威嚇か、直撃は免れた。だが彼女は身動きが出来ない。
「どうして……こんなことに」
呟く。
「バケモノのことなら、俺のせいだ」と、ツカサ。
「な、なんで」
「面倒だな、話せば長い」
「説明しなくていいから、なんとかしてください」
「だけど、あんたのせいでもあるんだ」
「わけがわからないよ……」
しかし彼女はもう、笑ってはいない。
「縛られたくなくて……壊したかったのは、確かだけど……」
見回せば、倒れた生徒たちの中には泡を吹いている者もいる。異形の影響下だからか。殴られることがなくても、心が軋めば、身も軋む。
「人を苦しめ傷つけることは、望みじゃない」
彼女は、涙を浮かべていた。
「本当は何が望みだったんだ……委員さんよ?」
ツカサは訊く。糸口はここしかない。
「ただ、もう少しだけ自由になりたかった。みんなも、自由にしたかった」
淀んだこの時間の中に、涙が一条、零れ落ちた。
ツカサは隠れるのをやめる。立ち上がり、彼女の前に出る。
「……手続きだ。一定の手順を踏ませて貰う」
「手順? なんの?」
「慌てるな。俺も久しぶりなんだ……さて」
彼女の顔――まだ半分、霧が掛かって判然としないその前に、ツカサは手をかざす。
「お前はこの事態の解決を望むか」
「あんな怪物相手に、あなたが何か出来るの?」
「できるから訊いている。さあ、解決を望むか否か」
「は、はい。でも」
「『でも』は不要」
「はい」
「敵はあれなるバケモノか、奴の名はなんという」
「えっ」
「……なんでもいい、名前をつけろ」
彼女は泣くのをやめて、まごまご戸惑っている。
足があるのかないのかよくわからないまま、バケモノはずるずるとこちらに近づいてくる。
「こ、来ないでよ!」
思わず彼女が言うが、
「規規則則・厳厳守守・指指示示・否否定定――」
言葉が通じないバケモノは、意に介さない。けれど彼女も怯まず、さらに
「否定……断わる……コトワレ……コトワレ!!」
叫んだ。ツカサは頷く。
「『言割れ』……それが彼奴の名か」
「ええ! 今、決めたから!」
「ならば敵をこれよりコトワレと称す。これはタテマエ、いびつなる言ノ葉。汝これを打ち倒すことを望むか」
「望みます!」
「よし。あやかしにはあやかしを、言には言を……」
ツカサはかざしていた手を握り、掴む。どこからともなく現れた扇子が、その手に握られた。
そして構える。
「タテマエ由来の代言者として命ずる。そこな風紀委員の、眠れるホンネ姿現せ」
扇子が、言霊を導き出す。
ぼん、と少々間の抜けた音がして出てきたのは、まるでぬいぐるみのような小さな……「あれ?」
一瞬、ツカサは間違えたのかと思う。委員の彼女も、目を丸くした。
鹿だ。
ただし端々はゼリービーンズみたいにやたらカラフルで、額にはでかでかとした絆創膏がバッテンに貼られている。
「こいつがあんたの、ホンネの姿か?」
「私に訊かれても。あなたが呼んだんでしょう」
「なかなか元気は良さそうだが……似合わない姿だな」
「……何故か知らないけど腹立たしいです、その言い方」委員はむっとしている。
鹿は何が可笑しいのか、甲高い声でぴゃーぴゃーと笑っている。ツカサは頭を掻く。
「しかし、こんな鹿の姿のままじゃ言葉が通じないぞ」
彼女は呆れた。「バケモノに対抗すると言うから何か武器でも出すのかと思っていたのに、頼りない……」
「ええい、やかましい」ツカサは扇子を広げる。「この鹿が武器に変わるんだ、あんたの力で」
「えっ、私、の、力?」と、彼女は瞬きする。
「封印を解かないとな。おい急げよ委員さん。コトワレの尖兵が迫ってる」
タテマエのバケモノ・コトワレは、分身である手下たちをツカサと委員に差し向けてくる。
鹿の周囲の淀みが晴れ、空気の色が明るくなり、一時的ながら結界に守られていることが見て取れる。だが長くはもたない。
丸い身体から生えた短い腕を小刻みに震わせながら、手下が迫る。
「封印を解くと言われても、どうすればいいんです!」
「ただ願えばいい。あんたが今、タテマエを超えて実現したいホンネを」
問うツカサに、
「じゃっ、じゃあ――」彼女は瞬間、考えて、答えた。「おやつが、たべたい」
「そんなのでいいのかよ……おっと」
たちまち変化が、鹿に現れた。額の絆創膏が、どどん、と音を立てて縮んだ。ツカサは扇子を鹿に向け、その変化を操り、制御する。
そして鹿は光の帯の渦になる。
サナギが蝶になるように。
「ヘェーイ!! 呼んだか・この野郎ッ☆」
出た。
変化を遂げた姿。
カラフルなのは鹿と同じだが、妙にサイケな……ちんまい、童子である。鹿の縮んだバッテン絆創膏は、鼻先にくっついていた。
「我の寝起きは超悪い☆ 腹減る奴は際限なく・食べさせまくりの・オシオキッ☆」
「妙なノリのガキだなあ」ツカサは笑う。
「餓鬼ちゃんと呼んであげなさいよ」ぼそりと言う委員娘。
「おいオマエ! さっさと欲しいものを言え!! 我をとっとと・じたばた・サセロッ☆」
「変な格好、しかも口悪い。これが委員さんの趣味か」にやにや。
「は、早く戦いなさい」照れているのか怒っているのか、顔を紅くしている。
「そうそう、そうだった」
ツカサはゆっくりと扇子を動かし、ガキ――餓鬼ちゃんに語りかける。
「この際、格好はなんでもいい。段取りは省略だ、やることはわかってるな、餓鬼ちゃんよ?」
「おう!! 募る思いの丈を・あのコトワレに・ぶるるる・ぶちまけるッ☆」
「よし、話のわかる奴で助かる」
餓鬼ちゃんと共に、ツカサは倒すべき敵を見上げた。
「憤怒怨念自敵暴敵自敵棄敵」
瞬間、暴風が吹き抜けた。僅かだが結界の色彩が乱れる。ホンネ・餓鬼ちゃんが出現したことに気づいたタテマエ・コトワレが、その暴威を剥き出しにしたのだ。乱れ飛ぶ束ねた鎖、空を踊るように滑り速度を増して爪を立てて来る手下たち。まだらに汚れた淀みが、色彩の結界を叩き、揺るがそうとする。
だが、砕かれはしない。
カラフルな顔色を変えずに餓鬼ちゃんが、
「めがふぉおおおおおおおんッ!!」
おたけびをあげると、渦巻きラッパがその手の中に現れた。
「行けっ」
ばばっ、とツカサの扇子も唸る。
「くらえひっさつ自自由由本邦奔放方法報砲らりるれれろられたちつててとたてまめみむめもまめはへひふほへはへ#*※――」 そのラッパから凄まじい勢いで放たれる。何を言っているのかわからない早口言葉、マシンガン・ワード・ホーン、白光りした音の洪水、高速で羅列された圧縮言霊はさながら銀河列車のようにどんどんと立ち上っていき宙返りをしながらコトワレの手下共を次々捉えて撃墜していく。その言葉は響き合い、折れ曲がり、敵を追う。奴らは避けようにも避けられず、破裂、破裂、破裂の連続で、消えていく。
「ぜはぜは……すーはーすーはー」
いっぺんに大量にぶっちゃけたためか、餓鬼ちゃんが息切れしている。深呼吸して、体勢を立て直す。
見上げる。
「陰陰陽陽諸行無常・常常・常常常常」――ぐおおん、と立ち尽くしたコトワレが吠えた。
片手に掲げた扇子を両手持ちに変え、ツカサは表情を引き締める。
手下を全滅させた。互いの思惑をぶつけ、 コトワレのほうも疲れている。
「一気にとどめと行くか、餓鬼ちゃん」
「おうさーッ☆」
餓鬼ちゃんも両手を揃って振り上げた。
ラッパに代わってそこに召喚されるのは、巨大なぺろぺろきゃんでぃー。
「断ち切れ、由来の悪輪廻を」
それを振り上げて、
「一・刀・糖・両・断☆」
振り落とした。甘く光る斬撃が空を飛ぶ。世界が切れる。そんな錯覚。
どん。
コトワレはそれをまともに受けた。淀みが断たれた。歪みが分かれた。制明盟減滅許処圧土二一――断末魔。奴の顔面らしきものがまっぷたつになった。胴が同じように割れた。半分になり、またその半分になり、悪意を固めたようなその装飾が取れ、欠片に、粉になって……覆っていた鎖と一緒に、消滅していく。
餓鬼ちゃんとコトワレの言論の果て。
眩い燐光の中にコトワレの怪異の姿が遠ざかり、溶けて、ついになくなった。
それまで風紀委員の容顔を隠していた雲も霧も晴れる。その表情も今は、涙はなく、柔らかで、晴れやかだった。
「……戻れ」
ツカサが扇子を閉じて命じると、ホンネ・童子餓鬼ちゃんは鹿の姿に返った。
その鹿を、風紀委員娘が抱きとめる
「そのホンネはあんたと不可分の存在だ。今後も大事にしてやってくれ」
「だ、大事に。と言われても、ペットとか無理で。かわいいけど……」
「他人に見せたくなければ隠せる。自分の意思で出し入れできるはずだ」
「そうなんだ。はい。ところでさっき、タテマエとホンネ、と言っていましたね」
「ああ」
「あれとこれが、私の、建前、と、本音……」
「言っておくが……戦って勝負がついたからといって、どっちが正しいとか悪とかじゃないからな。あんたにとっての解決ができただけだ」
「ううむ。なるほど」
鹿を抱えたまま、彼女は考えるようにしている。
「しかし……委員さんって、そんな感じの目してたんだな」ツカサが呟いた。
「え?」
「今日、はじめて見た。知らなかったよ」
霧の払われた、彼女の表情。きりっとした輪郭の中に可愛げがあって、くりっとした目は少し餓鬼ちゃんにも似ている。
「ど、どんな感じの目です?」と彼女が問う。
「丸い」
「はあ」
「何を落胆しているんだ、委員さん」
「律です」彼女は言った。「……カノカワリツ、鹿乃川律です。風紀委員です」
「風紀委員なのは知ってるよ」
「悪かったですね」
「悪い? 何が」
「ご期待に添えるような相貌でなくて」
「何も期待してない」
「……そういう言われ方、何故か腹が立ちます。葛葉ツカサさん」
「ああ、俺の名前は知ってる……よな、そりゃ。委員だし」
周囲の空の色も、普段通りの朝の青に戻りつつあった。何事もなかったように、門前に居合わせた生徒たちは立ち上がり、自然な足取りで学舎へと向かっている。
誰も気に留めない。皆、忘れてしまったのか。
けれどその場にあったはずの黒い鉄製の校門だけが、どこかに消えていた。
何の痕跡もない。やってきた教師たちは、しきりに首をひねっている。
たぶん半分の半分のそのまた半分の粉々になって、校門はさっきまでの色褪せた異空間に取り残され、光と共にどこかへ吸い込まれて行ってしまったのだろう。
律のそれまでの、拘りすぎた建前と共に。
どこか――それがどこなのかは、ツカサと律も知らない。
学園の朝が始まる。