(……考えてみれば、俺があの不吉な夢を見るようになったのは、熊野烏丸の言葉を聞いてからだったな)
恐らく自分だけではなく、空もまた熊野烏丸の言葉が気になっていたのだろう。
『兄』の真実を問いただすために……ツカサと自分の本当の関係を知るために、空はカラス丸の成長を急いでいたのだった。
「……そう言えば、葛葉と空ちゃんの関係って、結局はっきりしてないんだっけ?」
「ああ……」
「ツカサお兄ちゃんはワタシのお兄ちゃんだよ! 絶対! ……たぶん! ……恐らく」
空の言葉は段々威勢を失っていく。
彼女は不安なのだ。なんせツカサ本人に最初から『お前は妹ではない』と言われている。
それに加え、自分のホンネである熊野烏丸の意味深な言葉……不安にならない方が不自然だろう。
「……ねえ、カラス丸。あんた本当に、ワタシとお兄ちゃんの関係について何も知らないの?」
「うん……熊野烏丸だったときのことは、何となく覚えてはいるんだけど……いまいち実感が持てないんだ。それに今のボクは記憶も、空に呼び出された時から今までのものしかないんだよ……だから、大人になったボクが、どうして空に『お兄ちゃん』のことを質問したのか……分からないんだ」
「……役立たず」
「なんだってー!? 元はと言えば、空の力不足が原因じゃないか!」
「むむむーッ!!」
「うがぁーッ!!」
今にも取っ組み合いの喧嘩を始めようとする空とカラス丸を、ツカサとキヌがなんとか収めた。
「……1つ 提案なのですが、これを機に、ツカサさんと空さんの認識をすり合わせたらいかがでしょう?」
「えっ?」
「空さんが焦っていらっしゃる原因は、カラス丸さんの力不足ではなく、ツカサさんが本当のお兄様か分からないということですよね?」
「そう……だね」
律の言葉に空が頷く。
「でしたら、ツカサさんが自分のお兄様であるという確信が持てれば、それでひとまずの問題は解決するのではありませんか?」
「ナーイスアイデア! 鹿乃川!」
「うん! そうなればボクも空から変な言いがかりつけられなくなって安心だ!」
「……ってなわけで、ほら、2人とも、さっさと自分語りをしなよ」
「……カラス丸はとにかく、鈴乃音はただ葛葉と空ちゃんの過去が聞きたいだけじゃないの?」
「否定はしないよ……だってあたしたち、それなりに葛葉と付き合い長くなってきたけど……コイツのこと、ほとんど何にも知らないじゃん。家族のこととか、今まで何してきたのかとか……あたしらは、恥ずかし~い本音の姿をコイツに晒してんのにさ。それって……不公平だと思わない?」
「……確かに。ムカつくわ」
「私もツカサさんの生活環境のことは気になります。ほ、ほら! 自堕落な暮らしをしているなら、矯正しないといけませんし!」
「そんなこと言われてもなぁ……俺は自分の過去をペラペラと喋るような趣味はしていない」
「んじゃあ、お先に空ちゃんどうぞ?」
「えっ!? ワ、ワタシ!?」
「空ちゃんが喋れば、お兄ちゃんもきっと喋ってくれると思うよ」
「おい……鈴乃音勝手なことを……」
ツカサが舞に文句をつける前に、空はためらいながらも語り始めた。
「……ワタシは、今父上と一緒に2人暮らしをしている。言ノ葉使いとして力の使い方を教えてくれたのも、父上。母上は……ワタシが赤ちゃんの頃に死んじゃったって」
「父上と母上とは……また古風な呼び方だな」
「やっぱり葛葉家って大きな家なの?」
キヌとそうくの質問に空は首をかしげている。
「……分かんない。そもそも、葛葉家がどういう家なのか、ワタシはよく知らないの……父上、あんまり昔のこと教えてくれないし、うちには父上の過去にまつわるもの、何も残ってないみたいだから」
「えっ……それって写真も思い出の品もないってこと?」
「うん……うち、昔っから引っ越しばっかりしていたの。それで荷物が多いと不便だし、捨てたって父上が……」
「えー? 人間ってそういう思い出の品は大事にするんじゃないの?」
ナルキの疑問に愛が答える。
「……仮に辛い過去を思い出させる物であっても、思い出が詰まってる物って、なかなか捨てられるもんじゃないと思うよ」
「それを全部捨ててしまうというのは……その、大胆と言うか」
「ぶっちゃけ変だね」
律と舞も眉をひそめている。
「……過去にまつわるものが何もない状況で、どうしてお前は俺のことを兄だと思ったんだ?」
ツカサの質問に空はポツリと答えた。
「……写真」
「え?」
「写真を見たから……父上、1枚だけワタシがまだ赤ちゃんの頃の写真を隠し持っていたみたいで……それをたまたま見る機会があったの。写真の中ですごく綺麗な女の人……恐らく母上だと思うけど、その人がワタシを抱っこして笑っていて、まだ今より若い父上も笑いながら母上の隣に立って、幼い男の子の肩に手を置いていた。みんなとっても幸せそうだった」
「その男の子が、俺だっていうのか?」
「…………」
「……空?」
空はツカサの質問に答えない。
突然ぼんやりとしだした空の肩をカラス丸が慌てて揺さぶっている。
「そ、空!? いきなりどうしたの? しっかりしてよ!」
「えっ……? あ、ああ……ごめん」
空は軽く頭を振ると、再び語りだした。
「……その、なんでか分からないけど……その写真の男の子の顔……よく思い出せなくって」
「思い出せない? ……だが、それがきっかけでお前は俺を兄だと思ったんじゃないのか?」
「そ、そのはずなんだけど……本当、なんでだろう? 写真の男の子の顔を全然思い出せない!」
空は頭を抱えて唸り始めてしまった。
しばらくウンウン悩んだ後、空は気を取り直して自分語りを再開する。
「と、とにかく! ワタシは写真を見たことがきっかけで、自分にお兄ちゃんがいたってことを思い出したの! ワタシがまだ赤ちゃんの頃『空は可愛いね』って言いながら、お兄ちゃんが頭を撫でてくれたり、ほっぺをつついてくれたって記憶を思い出したんだ」
「思い出したって……急に?」
「それに空ちゃんは赤ちゃんだったんでしょう? そんなこと本当に覚えてたワケー?」
驚くそうくとナルキに、空は自信満々の笑みを浮かべる。
「そりゃあ、ワタシ天才だから! 赤ん坊の頃から記憶力も天才的だったのよ!」
「はいはい……」
「それで……空さんはお兄様のことを、お父上に尋ねたのですか?」
「う、うん……」
「お父上はなんと?」
「……今まで隠していたけど、ワタシにはお兄ちゃんがいるって。それで訳があって今は離れて暮らしているって……お兄ちゃんはワタシと同じ言ノ葉使いで、高校生だって」
「なるほど……」
言ノ葉使いは、常人よりも遥かに強い霊力を帯びている。
ツカサの霊力に気がつき、言ノ葉使いとしてホンネ妖怪たちと語らっている彼の姿を見て、空が兄だと思ったのも、あり得ない話ではないだろう。
「そのほかにも父上が話してくれたお兄ちゃんの特徴は、ツカサお兄ちゃんに当てはまってる気がした。だからワタシはツカサお兄ちゃんが本当のお兄ちゃんだって思ったんだけど……」
「……お前の父上は、俺とお前がこうして出会っていることを知っているのか?」
「ううん……まだ話してない。父上、仕事が忙しくて、あんまり家にいないし……なんとなくだけど、お兄ちゃんのことはあんまり聞かないで欲しいってオーラが出てたから」
「……父親に反対されているって感じていて、それでも、お前は俺に会いに来たんだな」
「仮に父上がお兄ちゃんのことを避けてても、ワタシが避ける理由にはならないじゃない! ワタシはお兄ちゃんに……自分の家族に会いたかった。それっていけないこと?」
「いいや、悪いことじゃないが……」
「……とにかく、ワタシはこうしてツカサお兄ちゃんに会いに来ました。これでワタシの話はおしまい!」
「……それじゃあ、次は葛葉の番だね☆」
「うっ……!」
そもそもツカサは空が喋ったからと言って、自分の過去を語るなどという約束はしていない。
このまま何も言わずに席を立つ、あるいは黙秘権を行使する……この場の逃げ方は数多くある……それでも。
「……お兄ちゃん」
空から期待しているような、怯えているような瞳を向けられると、ツカサは黙っているわけにもいかなかった。
ふぅっと大きな溜息をついた後、ツカサは渋々語り始める。
「……俺は1人暮らしだ。言ノ葉使いだった両親は既に死んでいるとじいやから聞かされている」
「じいや?」
「俺に言ノ葉の力を教え、面倒を看てくれている男だ……もっとも『じいや』と言いつつ、そこまで老いているという印象はないがな。40代……いってても50代前半だろう」
「すっごーい☆ じいやだって! ツカサってば、お坊ちゃんだったの?!?」
ナルキが大げさな声を上げる。
「お坊ちゃん……かどうかは分からない。俺も葛葉家のことは良く知らないからな」
「それじゃあ葛葉、マジで空ちゃんのお兄ちゃんなのかもしれないじゃん」
「だが……じいやから俺は『葛葉一族最後の生き残りだ』と言われている……血の繋がった妹の話なんて聞いたことがない」
「……じゃあ、そのじいやさんは、ツカサと全く関係のない人なの?」
「えっ?」
「ツカサが葛葉一族最後の生き残りって言うのなら、じいやさんは一族の人じゃないんでしょう? なのにツカサに言ノ葉使いとして力の使い方を教えてくれたの?」
「……それは」
「じいやさんって、何者なの?」
ナルキからの質問に思わずツカサは言葉を失う。
(じいやが何者か? 俺は今まで考えたことがなかった……何故だ? じいやがもし俺と何の縁もない男であれば、そんな男の援助を受けているという現状に、ナルキのような疑問を抱くのが普通じゃないのか?)
「……私もいいかな? 葛葉?」
キヌがツカサに向かって質問を投げかける。
「お前さんは、先ほど両親は死んだと言っていたね? 死因は一体何だったんだ?」
「両親の死因……」
ツカサは頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。
(俺の両親は一体どうして死んだんだ? 俺は知らない……死因だけじゃなくて、両親のことを何も知らない!)
何よりもショックだったのは、自分が今まで両親のことを何も知らないという事実に思い至らなかったことだった。
「……もしかしてお前さん、分からないんじゃないのか?」
「そう……みたいだな」
「そうみたいって……いくら葛葉がアホで無神経でも……自分の家族のことなんだよ? そんな曖昧な認識ってある?」
ツカサの言葉に愛は惑い絶句しているようだが……ツカサもまた混乱していた。
「狗谷のお嬢さん、確かに葛葉の頭がへちまみたいに空っぽという可能性もないではない。だが……今回の場合は、ちとおかしい感じだ」
「……キヌ、一体何が言いたいワケ? アンタ、いちいち遠回しな言い方で分かりにくいのよ」
「簡単なことだよ……葛葉は恐らく何者かに、記憶を封じられているんだ」
「えっ? ツ、ツカサさんが?」
「そうだ。葛葉は、恐らく自分の両親や家族について疑問を抱くということすら今まで無かったはずだ……そうだろう?」
「あ、ああ、その通りだ……でも、それは俺が何者かに記憶を操作されていたからだって言いたいのか?」
「そういうことだね。お前さんは『葛葉一族の最後の生き残りにして言ノ葉使い』……そういう役割を振られていた……その役を演じるために不要な疑問は抱かないように封じられていた……趣味の悪いロールプレイングゲームというやつだ」
「キヌ……君のことだ。何も根拠がなくそんなことを言っているわけじゃないよね?」
「もちろんだよ」
そうくの言葉にキヌはあっさりと頷く。
「私は今日、葛葉の家に入る機会があってね。そこでたまげたんだが……この男の家には生活を感じさせるものがほとんど何もないんだ。あるのは少しの衣類を入れておくだけの箪笥と、寝床になるベッド、小さな冷蔵庫……唯一CDデッキが個性を感じさせる置物だったかな?」
「お前……人の家に勝手に入ってきて、そんなジロジロ見るような真似してたのかよ」
「私だって普通の人様の家であれば、そんなぶしつけなことはしないよ……ただお前さんの家は異質すぎた。モデルルームの方がまだ温かみを感じるくらいだったよ……お前さんの部屋には、お前さんのバックボーンを現すものが何もない……個性と過去が徹底的に排除されていた」
「それって……空の家と同じで、引っ越しの多いツカサが余分な物を全部捨てちゃったってことなんじゃないの?」
「私も最初はそう思った。葛葉は変人だからね。そういう奇矯な行動をとってもおかしくない、と考えたんだ……でも、さっきから話を聞いていると、どうもそうじゃないようだ」
「……記憶を操作されたツカサが、役割を演じるために不都合となるだろう自らの過去を抹消するような行動を取っていたということ?」
「私はそう思ったんだがね……どうなんだい? 葛葉?」
「…………」
(……確かに俺は引っ越しの度に、全部の物を捨てていた……今まで意識したことはなかったが、考えてみればおかしな話かもしれない)
普通いくら引っ越しで荷物を少なくしたいと言っても、前の家で使っていた物を全て捨てるというような非効率な行動を取るものは少ないだろう。
必要最小限の日常品はいくつか持っていくはずだ。
(そうしなかったのは……やはり俺が何者かによって、記憶や行動を操られていたからなのか?)
ツカサはしばらくの間、今まで自分の歩んできた道を思い返してみた……だが自分が何者かに操られているという確信も、そうでないという確信も得ることが出来なかった。
「……俺の過去を消そうとしていたのは、恐らく自分自身だ。だが……どうして俺はそこまで徹底して自分の過去を消さなければならなかったのか? ……分からない」
「……そうですか」
「じいやさんのことも分からない。葛葉一族のことも知らない……家族のことも覚えてない……か」
「空さんとツカサさんの過去を照らし合わせてみれば、何か分かるかと思ったのですが……」
「結果的になーんにも分からなかったねー! それどころか、頭がぐっちゃぐちゃに、なっちゃった!」
「ううう……」
頭が極度に混乱したらしい、空は目をグルグルと回しながらテーブルに突っ伏してしまった。
「……結局、そのイケメンの熊野烏丸に真実を聞くしかないのかー」
「……ここまで話して、振り出しに戻るって……なんだかね」
「……振り出しじゃないさ。分かったこともある」
「……何が?」
「俺と空が自分たちのことを『何も分からない』ということさ……今まで自分の過去について、何も疑問を抱いてこなかった俺にとって、この気づきはデカいよ」
「確かにそうかもねー!」
「それじゃあ、なおのこと熊野烏丸を呼び出さないと」
「ああ……」
空の父親は兄のことを語りたがらないというし、じいやもツカサの過去を知る上では信用できないだろう。
あの天才と己を称する八咫烏を頼るのが、一番確かな手段に思える。
「で、でも……ワタシ、熊野烏丸を呼べないんだってば。だからこうして皆に相談し始めたんだし……」
「そうでした! うーん……どうしよっか?」
ナルキの言葉に一同はしばらく考え込む。
やがて口を開いたのは律だった。
「……ここは正攻法しかないでしょう」
「と、言うと?」
「熊野烏丸さんは、カラス丸さんの成長した姿……故に、空さんが成長しなければいけない……そうですね?」
「う、うん……熊野烏丸はそう言ってた」
「ならばやるべきことは1つ……即ち特訓です!」
「特訓!? 言ノ葉使いの!?」
「もちろんそれも必要でしょうが……大人になるというのは、必ずしも力だけを鍛えればいいというわけではありません……精神力、マナー、家事炊事能力等も必要不可欠なのです……空さんとツカサさんのため! ここは私たちがひと肌脱ぎましょう!」
律は天井に向かって勢いよく手を掲げている。
「お、おお……鹿乃川が何か燃えてる……面白いから、まぁいいけど」
「……うざいけど、仕方がないか。乗りかかった船だし」
舞も愛も空の特訓に力を貸すことを決めたようだった。
あまりの律の気合いの入りように、空とカラス丸は少し怖気づいている。
「そ、空……頑張ってね。ボク、君のこと応援してるからね!」
「あっ! ず、ずるい! カラス丸逃げる気なの!?」
「……そうはさせませんよ」
「ひっ!?」
さりげなく逃げようとしていたカラス丸の肩を律がしっかりと握りしめる。
「カラス丸さん。主の空さんだけでなく、ホンネの貴方もまた鍛錬が必要に思えます……一緒に頑張りましょうね?」
にっこりと笑みを浮かべながら律は空とカラス丸を引っ張り、ハンバーガーショップの出口を目指す。
「いやぁ~~ッ! お兄ちゃん~~ッ! 助けてぇ~~ッ!」
「ツカサ~~ッ! ヘルプ~~ッ!」
(……これはまた一波乱ありそうだ)
頭を掻き毟りながら、3人の後を追おうとしたツカサのマフラーを愛がしっかりと握りしめる。
「……なんだ? 狗谷」
「お会計……あの子らの分、払っていって」
「はっ!? なんで俺が!?」
「アンタ、暫定的でも空ちゃんの兄なんでしょう? ……よろしくね? ツカサお兄ちゃん?」
「……はぁ。分かったよ」
――それから空とカラス丸の特訓の日々が始まった。
「……いけません! 空さん! ほうきは部屋の隅から真ん中へかけると言ったでしょう!?」
「は、はい! 律先生!」
「カラス丸さん! 羽をむやみに広げない! ほこりが舞うではないですか!」
「ご、ごめんなさい! 律先生!」
律は鉢巻を締めて、どこから調達したのか分からないが、竹刀を片手で持っている。
彼女のトレードマークの腕章は『葛葉 空・教育係』と文字が変化していた。
「……ほうきが終わったら、次は雑巾がけですよ」
「は~いは~い……」
「分かりました~」
「『はい』は短く1回で!」
「「はいッ!」」
本来地味な作業や地道な努力というものは、天才肌の空にはキツイものだっただろう。
だがそれでも空は頑張った。ツカサと自分の関係をはっきりさせたかったからだ。
そしていつになく真面目に励む主を支えようと、カラス丸もまた健気に働いた。
ツカサは2人の特訓を手伝うことはしなかったが、いつも空が修行を終える頃になると迎えにきて彼女を家まで送っていった。
「つ、疲れた~……お兄ちゃん、おんぶ~……」
「ツカサ~、ボクも~」
「……仕方がないな」
空は小柄で、カラス丸はほとんど重さがない。
ツカサは2人を背負うと冬の香りがし始めた冷たい夜道を歩き出す。
ツカサの体温を感じながら、空は思う。
(……ツカサお兄ちゃんって、ぶっきらぼうで何を考えているか分かりにくいところがあるけど、いつも優しくしてくれる……でもそれって、ワタシが妹かもしれないからなのかな? もし、ワタシがお兄ちゃんの妹じゃないってことになったら……こんな風におんぶはしてくれないの?)
そう考えると、自然とツカサにしがみつく腕に力が入ってしまう。
「ん……? どうかしたのか?」
「……ううん。ちょっと寒いだけ」
「そうか……」
空は不安な気持ちを押しつぶすかのようにツカサの首元に顔を埋めたのだった。
――それからしばらくの間、空とカラス丸の特訓は順調だった。
助け合い、お互いの境遇を嘆きながらも、鬼教官と化した律のしごきに耐えていた。
舞とキヌの茶道教室で忍耐力を鍛えることも出来たし、愛のバイト先で一緒に働き、労働の尊さも学んだ。
変わったところでは、そうくから集中力を鍛えるという理由で、はさみを使った切り絵も学んだ。
だが……慣れない地道な作業はせっかちな天才である空をイラつかせ、窮屈な制限は自由奔放なカラス丸の心を縛った。
何よりこれだけの特訓をこなしながらも、カラス丸が一向に熊野烏丸へと変化しないことが、空とカラス丸のストレスになっていったのである。
段々と2人の連携は怪しくなり、お互いを罵り合うような機会が増えていく。
「……空! 今日の料理当番は空だったはずだろう!?」
「ちょ、ちょっとサッカー部の練習が遅れただけだもん!」
「またそうやって、言い訳する! 自分が悪いと思ったときは、素直に謝りなよ!」
「何よ! ワタシ嘘を言ってるわけじゃないもん! 悪いことなんかしてないじゃない!」
「そういうところが空は可愛くないんだよ!」
「うるさいな! カラス丸! 素直で何でも言いたいことを言うのが正義だって思ってるかもしれないけど、それって勘違いだからね!?」
「なんだよ!」
「なによ!」
涙目になりながら口喧嘩をしている空とカラス丸を見て、ツカサはがっくりと肩を落としながら、仲裁に入る。
「……2人とも、その辺にしておけ……飯の準備なら、俺も手伝ってやるから」
「ううう……分かった」
「ツカサがそう言うなら……」
(……このままだと、いつか大きな問題が起こりそうだな)
――果たしてツカサの予感は当たってしまうことになった。
――その日は人気のない公園で、ナルキと共に言ノ葉使いとしての力を鍛えるという特訓だった。
「……それじゃあ、今から僕がテキトーに攻撃するから……2人で力を合わせて30分耐え抜いてね♪」
ナルキにそっとツカサは耳打ちする。
「テキトーに攻撃って……ホンネの力を使うってことか? そいつは危険じゃないのか?」
「大丈夫♪ 大丈夫♪ 僕だって本気で攻撃したりしないよ。……それにちょっとぐらい危ないことしないと、空ちゃんとカラス丸くんの潜在能力は引き出せないと思うけど?」
「それはそうなんだが……」
今の空とカラス丸の関係は、お世辞にも良好とは言えない。
(あの2人でナルキの攻撃をかわすことが出来るのか?)
ツカサの心配をよそに、空とカラス丸の返事は威勢がいい。
「30分とは言わず、1時間でも2時間でも耐えてみせるよ!」
「やってやる!」
「よーし☆ 良い返事だぞー! ベイビーたち! ……それじゃ、スタート!」
ナルキの掛け声とともに、空とカラス丸の足元から先の尖った千歳あめが生えてくる。
「うわっ!?」
「危ないっ!」
間一髪のところで空とカラス丸が避けると、ナルキは愉快そうな笑い声をあげた。
「あははは! 上手上手! でも……まだまだ行くよー♪」
今度は丸い飴が弾丸のように空たちを襲う。
「うきゃあああーー!?」
「いたたたたーー!! これ、地味に滅茶苦茶痛いよ!?」
「お、おい……ちょっとやり過ぎじゃないか?」
ツカサはナルキに問いかけたが、当のナルキは涼しい顔だ。
「もー! ツカサお兄ちゃんってば、実はシスコン? ……大丈夫だって、手加減はちゃんとしてるから……あの飴の弾丸も、2人がちゃんと力を合わせれば、弾けるようにしてあるんだよ」
「そうかもしれないが……」
空とカラス丸は連携を崩し、飴の弾丸をもろに食らっているようだ。
「……ツカサの気持ちも分かるけどさ、こんな温い攻撃も避けられず、力を合わせられないようじゃ、言ノ葉使いと使役されるホンネとして失格でしょ。そんなんじゃいつまで経っても、熊野烏丸には届かないんじゃない? ……ツカサの特訓はここで僕と一緒に2人を見守っていることだよ」
「……分かったよ」
普段はおちゃらけていて、軽い調子のナルキだが……彼はあの恐怖の風紀委員、鹿乃川 律のホンネなのだ。
締めるところは締める。
愛情と甘えは一緒にしない。
……そういうことなのだろう。
ツカサはナルキの言葉に従い、おとなしく空とカラス丸を見守ることにした。
それから2人は顔面でパイをキャッチしたり、綿菓子のネットに捕らえられ身動きが取れなくなりそうになったりと、散々な様子だった。
だがナルキの言った通り、1つ1つの攻撃は2人が力を合わせれば楽に回避が出来るもののようだった。
やがて2人はそのことに気がついたようだったが、1度噛み合わせが狂った歯車は、なかなか上手くは回らない。
「……いい加減にして! さっきのクッキーの壁は、アンタの力で砕けばよかったでしょう!?」
「いちいち壁をぶち破ってたら、時間のロスだよ! それだったら、一気に飛び越えた方が遥かに効率的だ! 空はそんなことも分かんないの!?」「ぬぐぅうう……ッ!」
「ぐるるる……!」
空は思い切り叫ぶ。
「もぉーーいや! こんな時、熊野烏丸なら何とかしてくれるのに! カラス丸じゃ空も飛べないし、何にも出来ないじゃない!」
「!」
思わず口に出してしまった空の本音は、カラス丸の心を深く傷つけた。
それが分かったのだろう、空も思わず怒りを鎮めて後悔の表情を浮かべる。
「あっ……そ、その……カラス丸」
「……どうせカラス丸のボクは役立たずだよ!」
カラス丸は、背中の小さな羽で空へと逃げようとした。
「あっ! 待って!」
空はカラス丸を追いかけようと走り出すが……。
(不味い! あっちは!)
ツカサは慌てて空に向かって全速力で駆けだした。
彼らの足元はナルキが生み出したチョコレートが泥のように広がっていて、下の地面が見えない。
だが、今空が走っていく先には、長い階段があったはずだ。
カラス丸を追いかけることに夢中になっている空は、そのことに気がついていない。
「きゃっ!?」
「空ーーッ!」
空が階段から足を滑らす瞬間、ツカサは彼女の手を取ると、彼女の頭をしっかりと抱え込む。
「きゃああああーーッ!?」
「くっ……!?」
空とツカサはそのまま勢いよく階段を転がり落ちていってしまった。
「あいたたたた……な、何!? 何があったの!?」
「……空、無事だったか?」
「う、うん……ってツカサお兄ちゃん! 血が出てる!」
空を庇ったことで、自分の身を守ることが出来なかったツカサは、落下の際に額を切ってしまったようだ。
「ご、ごめんなさい……お兄ちゃん。ワタシのせいで……」
「……かすり傷だ。気にするな」
ツカサはそう言うと、空の頭を優しく叩いた。
その瞬間――。
(あっ! 前にもこんなことがあった……!)
空の頭の中に突如幼い日の情景がフラッシュバックした。
(あの時、ワタシはまだはいはいをするような年頃で……ベビーカーから抜け出そうとしていた)
幼い空はバランスを崩し、ベビーカーから落ちそうになった。
「……空! 危ない!」
そんな空を庇ったのは、彼女よりも3つ年上の兄だった。
空を抱きとめた際、倒れてきたベビーカーで兄は額を切ってしまった。
それでも兄は泣きもせず、妹の無事を喜んでいた。
「……空が怪我をしなくて良かった」
(あの時のお兄ちゃんの笑顔……思いだした!)
「……空? 大丈夫か?」
ツカサの問いに、空は笑顔で答えた。
「う、うん……ちょっとぼうっとしてただけ」
「頭でも打ったんじゃないだろうな?」
「本当に大丈夫だってば……それよりお兄ちゃんは、自分のこと心配した方がいいと思う。顔、結構スプラッタなことになってるよ」
「マジか?」
そんなやり取りをしていると、カラス丸とナルキがようやくツカサたちの元へ、駆けつけてきた。
「空! ツカサ!」
「ちょ、ちょっと! 2人とも大丈夫!?」
「ああ……問題ない」
「問題ないって!? ツカサ! 血、血が!」
「頭の怪我はちょっと大げさに見えるだけだよ……それより空、カラス丸に何か言うことがあるんじゃないのか?」
「えっ……?」
「……空、お前は自分が言っちゃいけないことをカラス丸に言ったって分かってるよな?」
「……うん」
空は立ち上がり、カラス丸に向き直ると頭を下げた。
「……ごめん。カラス丸……カラス丸は一生懸命頑張ってくれてたのに、熊野烏丸と比べるようなことを言っちゃって」
「空……」
自分の力が足りていない。熊野烏丸を召還できない。
そのことで焦っていたのは空だけではない。
カラス丸だって辛かったのだ。
周りの期待に応えられない。主の願いを叶えられない。
みんな熊野烏丸を待っている……役立たずの自分は必要とされていない。
それでもカラス丸は腐ることなく努力した。
みんなが好きだったから、主の空が頑張っていたから……求められているのが自分でなくても、くじけなかったのだ。
空だってそのことはちゃんと気がついていた。
「ワタシ、確かに熊野烏丸を早く召還できるようになりたいと思ってる……でもカラス丸のことも同じくらい大事だよ。だって2人ともワタシの大事なホンネだもん」
空はそっとカラス丸に向かって手を出した。
「だから……ごめんね。カラス丸。これからもワタシと一緒に頑張ってくれる?」
「……うん! もちろんだよ! 空はボクの大事な主で相棒なんだから!」
カラス丸は空の手を力強く握り返す。
そんな2人の様子を見て、ツカサとナルキは柔らかく微笑んだ。
「……あの分だと、これから何とかやっていけそうだな」
「うん! きっとカラス丸は熊野烏丸になれると思うよ!」
喧嘩をして、ぶつかり合う。
空とカラス丸は慣れ合うのではなく、互いに磨き合う関係なのだ。
その結果、いつかはきっと揃って綺羅星の如く輝く時がくるだろう。
(もっとも……今はまだその時じゃないみたいだがな)
そんな日が来るまで、ツカサは彼らの傍に居てやるのも悪くはないと思っていた。
――ナルキの特訓も終わり、ツカサたちは家路をのんびりと歩いていた。
「……ねえ、お兄ちゃん。手、繋いで?」
「はぁ?」
「疲れちゃったんだもん……本当はおんぶしてもらいたいけど……今日はお兄ちゃんもボロボロだしね。だから手を繋ぐので我慢する」
「どういう理屈なんだよ……仕方がないな」
「あ! ボクもツカサと手を繋ぐー!」
「あー、はいはい。好きにしろ」
空とカラス丸はツカサを真ん中に左右に分かれると、思い思いに手を繋ぎ始めた。
「えへへ……暖かい! ……お兄ちゃんも暖かいでしょ?」
「……まぁな」
ツカサの笑みは呆れているようだったが、決して空を拒むものではなかった。
そんな彼の表情を見て、空は確信する。
(……ツカサお兄ちゃんは、いつだってワタシが悪いことをしたときは、怒ってくれるし、甘えたらきっと手を繋いでくれる、おんぶもしてくれる……そうだよね? ツカサお兄ちゃんは変わらないよね? ……私が本当の妹じゃなくても)
昼間、一瞬見えた過去の情景と兄の姿。
過去が見えたことが原因なのか、空は兄の顔を思い出すことが出来るようになっていた。
古びた写真の中で笑う兄は、ツカサに似た面影をしていたが……それでも別人のように今の空には思えるのだった。
(それでもいいの……ワタシのお兄ちゃんに対する想いは変わらないから)
「……ツカサお兄ちゃん?」
「うん?」
「ワタシ、ツカサお兄ちゃんが大好きだよ!」
「ボクもツカサのことが好きー!」
空とカラス丸に左右から飛びつかれて、ツカサは一瞬目を丸くするが、すぐに表情を緩める。
「……そいつはどうも」
それから3人は一塊のようになって、夜道を歩いた。
空には大きな満月が浮かび、ツカサたちの姿を見守っていた――。
――同じ時、異なる場所。
1人の青年が満月を見上げていた。
(今日は満月か……凍えるような光を見ると、彼を思い出す)
青年の周囲には灯りは一切ない。
彼の姿は闇に溶けていて、彼が一体どんな状況に置かれているのか? 様子を伺うことは難しい。
(彼は……どこで、何をしているだろうか? ……彼も今宵の月をどこかで見上げているのだろうか?)
「……ツカサ」
青年はこらえようとしていた吐息が、思わず零れ落ちてしまったかのような声で呟いた。
一瞬、月明りが青年の顔を照らしだす。
青年の髪色は月の光を写し取ったような銀色で、瞳は血色のおおきな紅玉のようだった。
青年は端正な顔立ちをしていたが、その表情には深い憂いが秘められていた。
次の瞬間、月が厚い雲の中に隠れると、青年の姿は見えなくなってしまった。
それから先、青年の姿が暗闇の世界から浮かび上がってくることは無かった――。
~了~