少年は、おばあちゃんの部屋の傍で懐かしい声を耳にします。
「――あの子は連れ戻させてもらう」
(この声は……! お父さんだ!)
ずっとずっと会いたかったお父さんの声を少年が聞き間違えるはずがありません。
少年はすぐにでもふすまを開け、お父さんの元に駆け寄りたいという衝動に駆られました。
ですがお父さんの声は、少年を思い止まらせるほどに荒々しいものだったのです。
(こんな怖いお父さんの声、聞いたことない。何をそんなに怒っているの?)
少年はおばあちゃんの部屋のふすまに、耳をぴったりとつけ、中の様子をうかがうことにしました。
すると、どうやら部屋の中にはおばあちゃんとお父さんだけがいるようで、2人は少年のことについて言い争っているように思えました。
「――保名、お前はあの子の可能性をきちんと評価できていません。あの子の力は年々弱まっている葛葉家で初代様に匹敵する力を宿した子なのですよ?」
「あの子がどう生きるかは、貴方が決めるのではなく、あの子自身だ!」
「昔からお前の無能さには呆れてきましたが、それでも血のつながった我が子だと思い見逃してきたというのに……まだお前は事の重要性を理解していないのですね? あの子がいないと、葛葉家の将来は危ういのですよ?」
「1人の子供を犠牲にせねば守れぬ家など、遠からず滅びる。いや、滅びるべきだろう……それでも貴女が治める代はまだ、安泰だ。貴女は大奥様として絶対的な権力を握り、何もかもが思い通りのはず……だから」
お父さんはしぼりだすような声を出しました。
「……あの子だけは解放してやってくれ。あの子は確かに強大な力を秘めているのかもしれない。でも普通の子なんだ。私と芒蘭の子供なんだ。貴女の欲望の担い手ではない!」
でもお父さんの必死の訴えは、おばあちゃんにはちっとも届いていないようでした。
「芒蘭……フン、あの穢らわしい女狐ですか。お前はあの女に化かされ、さらに愚かになったようですね」
おばあちゃんは冷たい声で続けます。
「あの子が『普通の子』ですって? 馬鹿馬鹿しい。あの子は畜生の子です。化け狐を母に持った穢れた子。霊力が強くなければ、触れるどころか見るも悍ましい。そんな畜生の子を、葛葉家の次期当主の座に据えてやろうというのです。感謝の言葉の一つでももらうというのであれば筋が通りますが、そのような罵声を浴びせられるとは屈辱ですね」
少年はおばあちゃんが何を言っているのか理解できませんでした。
(おばあちゃんが僕のことを『悍ましい』って……おばあちゃん、僕のこと本当は嫌いだったの? 笑顔は全部嘘だったの? それに僕のお母さんが化け狐って、どういうことなの!?)
少年の気持ちなど知る由もないおばあちゃんは、さらに信じられない言葉を口にします。
「あのような畜生の子は、せめて私のような真っ当な人に使われるのが救いであり正しい道でしょう。保名、葛葉家の次期当主という名誉ある立場を自ら投げ出したような愚か者には、あれこれ言う権利はありません」
「……貴女はその身勝手な『正しい道』のために、殺人を犯したのか! 芒蘭を……私の妻であり、あの子の母を殺めたというのか!」
(えっ!? お、お母さんが……殺され……)
「何度言えば分かるのです。あの女は化け狐。人ではありません。害ある畜生を殺すのは罪ではなく『間引き』というのですよ」
「貴女という人は……どこまで残酷なのだ! この事を、あの子が知ればどう思うのか!? 果たして、今のように素直に貴女の言いなりになるとお思いか!?」
次の瞬間、おばあちゃんの言葉を聞いた少年は、自分の周りの世界がガラガラと音を立てて、崩れていくのが分かりました。
「あの子には既に葛葉家次期当主としての教育を初めています……仮に、私の言う事に従えないというのであれば、それまでのこと――母親と同じように、間引けばいいだけです」
「この外道……!」
「外道とは人ならざる畜生と心を通わすようなお前のことを言うのですよ……もし、あの子が潰れても、その時は妹の空を使えばいいだけのこと」
「なっ!? ど、どうして貴女が空のことを!?」
「フフフ……空とやらもあの女狐の力を受け継いでいるのであれば、強い霊力を宿しているのでしょうね。しかもあの子より幼い分、御しやすい……そうだ、いっそ妹もこの葛葉家で調教しましょうか。そうすれば、あの子も喜んで、一層この家のために尽くすはず……」
おばあちゃんの言葉が終わる前に、少年は部屋の中に飛び込んでいきました。
「空に何をするつもりだ!」
「なっ!」
「お前、いつからそこに居たのです?」
お父さんとおばあちゃんは、急に姿を現した少年にとても驚いていたようですが、そんなことは少年には関係ありません。
今はそれよりも確かめねばならないことがありました。
「ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんがお母さんを殺したなんて、嘘だよね? おばあちゃん、修行の時は怖かったけど、僕に優しくしてくれたじゃないか……そんな酷いこと、してないよね? ……嘘だって言ってよ! ねえ!」
少年は涙を流しながら、おばあちゃんにすがりつきます。でもおばあちゃんは少年の質問には答えず、まるで虫でも追い払うかのようにするのでした。
「まったく……これだから畜生の子は。エサをやり、少し優しくすれば勘違いをするのですね」
「おばあちゃん……」
「お前は葛葉家の次期当主。この家をさらに発展させ、永久(とこしえ)の安泰をもたらすための、ただの装置……それ以外に価値はなく、その機能を阻害する要素は全て排除するだけです」
「そんな……うわああああああぁぁーーッ!!」
少年は絶叫しました。おばあちゃんの優しさも、使用人たちの自分を尊敬する言葉も、周りの大人たちの期待も……全部、全部、絵本の中の物語のように嘘っこだったのです。
いえ、絵本の中の出来事であれば、どれほど良かったでしょう。これは紛れもない真実。現実に起こった事実なのです。ただ、少年の世界が作り物から本物に反転しただけのこと。そして本物の世界はどこまでも残酷なのだというだけでした。
お母さんはおばあちゃんに殺されてしまい、自分もまた心を殺されるのだ……そのことを知った少年の心には地獄の劫火が宿ります。
「――我に宿りし、言ノ葉の力よッ! 今こそ神威を見せよッ!」
少年が呪文を唱え始めると、手の中には扇子が現れます。
「な、何をするつもりです!」
「ダメだッ! こんなところで力を使っては……!」
少年の行動を見たお父さんとおばあちゃんは、慌てて彼を止めようとしますが、既に時は遅かったのです。
「我が呼び声に応じ、我が願いを叶える代弁者……お出でませッ!」
「うおっ!?」
「くっ……!」
少年が扇子を掲げると彼を中心に嵐のような旋風が巻き起こり、あまりの風の強さにお父さんとおばあちゃんは近づく事すら出来ません。
「うわああああああぁぁーー!!」
少年の絶叫と共に、髪の色が段々と薄くなっていきます。そして瞳の色も若草色から変化していくのでした。
やがて少年は月が齎す死の輝きに写し取った白銀の髪色、そして瞳は地獄劫火で染められた深紅に変化したのです。
「……僕の『ホンネ』よ! 僕を裏切った、この世界の何もかもの全てを壊し、喰らい尽くせええええぇぇーーッ!」
少年の呪いの言葉に、獣の咆哮が応えました。
『ケエエエエーーンッ!』
天井を突き破り、壁をぶち壊し、少年の前には大きな大きな金色の狐が出現していました。
大狐の瞳は少年と同じように、怒りと憎悪で真っ赤に染まっています。
地を揺るがすような低い唸り声を挙げる大狐の姿に、流石のお父さんとおばあちゃんも圧倒されているようです。
「行けッ! 僕のホンネ『大狐』!」
『ケエエエエエエエーーッ!』
大狐は長く鳴くと、そのまま葛葉屋敷を壊しながら、空高くに舞い上がりました。
「大奥様! 何事ですか!?」
「ご無事ですか!? 大奥様!」
ようやく騒ぎを聞きつけた使用人たちが姿を現します。
「ひ、ひいっ!? き、狐! 巨大な狐の化け物だッ!」
大狐の姿を見た使用人の1人がたまらずに悲鳴を上げます。すると大狐はまるでその悲鳴が合図だったかのように、空から急降下して使用人を鋭い牙でかみ砕きました。
「ぎゃああああーーッ!」
使用人の身体は真っ二つになり、中からドロドロした臓物と、どこに収まっていたのか不思議なくらいの沢山の血が飛び出してきて、部屋中に散らばりました。
「ひ、ひいいいいッ!?」
仲間の凄惨な姿を見た他の使用人たちは恐れ慄きますが、彼らの主人は逆にそこで正気を取り戻したようでした。
「緊急事態です! 屋敷の者は皆直ちに武装を整え集まりなさい! 必ずこの化け物を仕留めるのです!」
「は、はいっ!」
主人の声に従い、大勢の使用人たちが刀や槍などを構え、大狐に向かって行きます。
ですが彼らは大狐に近づく事すらできず、ある者は大木よりも太い尻尾で払われ、ある者は鋭い爪で切り裂かれ、またある者は大狐の胃袋の中に消えて行きました。
「うわあああーーっ!?」
「お、大奥様、駄目です! あの大狐の前ではどんな武器を持ってもしても止めることが出来ません!」
「くっ……葛葉家の言ノ葉使いたちは何をやっているのです!」
「先ほどからあの大狐を捕らえる結界を張ろうとしていますが……あれは若様が生み出したもの。若様の言ノ葉の力には、誰もかないません!」
「おのれぇ……畜生め!」
おばあちゃんは使用人たちに大狐の本体である少年を殺すように命じますが、それを大狐が許すはずもありません。
『ケエエエエエエエーーン!!』
大狐は大きな尻尾を左右に何度か振ります。大狐にとって、それはうるさいコバエを追い払うぐらいの動きでしたが、人間たち、それに葛葉家の屋敷にとっては壊滅的なダメージでした。
「ぎゃああああーーっ!!」
少年に向かってこようとした使用人たちは、全て崩れてきた壁や天井に潰されてしまいました。
「あははは! イチゴジャムみたいだ!」
少年は甲高い声で笑います。
「行こう! 大狐! 全てを壊そう! 全てを殺そう! 僕とお前で、この葛葉家を終わりにするんだ!」
『ケエエエエエエエーー!』
少年と大狐は、目についたものから何でも壊していきました。屋敷も人も関係ありません。葛葉家に存在するすべてのものが憎く、滅茶苦茶にしてやらねば気が済みません。
「やれぇっ! 大狐!」
少年の声で、大狐が葛葉家の厚い土の壁を豆腐のように切り裂きます。お庭にあった木々を倒します。逃げようとする人たちを噛み殺します。かつて、餌をやったことのある鯉のいる大きな池の中には、大狐にふっ飛ばされた車がおもちゃのようにひっくり返って半分水の中に沈んでいました。そして地面には大きな池よりも、さらに大きな血で出来た池が出来上がり、空は屋敷から出た火でまるで昼間のような明るさです。
この地獄のような光景を前にして少年は笑っていました。
「いい気味だッ! 皆、皆、死ねッ! 死んじゃえッ! お前たちは、僕のお母さんもこういう風に殺したんだろう!? だからお前たちも惨たらしく死んで当然なんだ!」
ここにいる大人たちは、少年のお母さんを殺しただけではなく、その事実を偽り、少年をだましていた悪い人たちです。
「……悪いことをした人間は罰を受けなくちゃいけないんだッ! だから、僕がお前たちに罰を与えてやるッ!」
大狐の口から滴り落ちる血で、その身を真っ赤に染めた少年の心には、血よりも紅い憎悪の炎が舞い、彼の身体を沸騰させる熱を生んでいるのでした。
少年が、今度は外に出て今まで自分と接した大人たちを殺しに行こうとしていたその時……。
「……もう止めなさいッ! このホンネを消すんだッ!」
一連の騒動で怪我をしたらしいお父さんが、少年の前によろけながら現れました。
「もう、気は済んだだろう……こんな恐ろしいことは止めなさいッ! お前の力はこんなことに使ってはいけないんだッ!」
「お父さんはお母さんを殺されて悔しくないの!? こいつらが憎くないの!?」
「憎いに決まっている! だが……それでも、一方的な暴力で、人を裁くというのは間違っているんだ! ……私はお前にそんなことはさせたくない!」
「もういい! お父さんは黙ってて!」
お父さんは少年を懸命に説得しようとしましたが、怒りの炎に取り憑かれた彼にその言葉は届きませんでした。むしろ彼の中の炎はより勢いを増したのです。
その時……少年の視界の端に、人影が映ります。
「……まだ生きていた奴がいたなんて! ここにいる奴らは皆、僕が殺してやるんだッ!」
「ダメだッ! これ以上はッ!」
少年の声に合わせて大狐が人影に向かっていきます。それと同時にお父さんも走っていきました。
「あははははは! 死ねッ! 僕に逆らう奴は、みんな死んじゃええええぇぇぇーーッ!!」
少年は狂喜に震えますが、次の瞬間その表情は凍り付きました。
「えっ……? あ、あれは……!」
大狐の爪によって無残にも引き裂かれたのは、少年の親友、光栄の母親でした。
傍には泣き叫んでいる光栄の姿も見えます。彼は、辛うじて少年のお父さんに庇われ、運良く大狐の爪から逃れることが出来たようでした。
「うわああああああぁぁーー!! 母ちゃん!! 母ちゃん!! 嫌だああああーーッ!!」
「だ、だめだ……君、危ない……逃げ……うっくっ!」
光栄はお父さんの制止を振り切り、血の池に浮かぶ母親の亡骸にしがみつきました。
お父さんはなんとか光栄を逃がそうとしているようでしたが、先ほど彼を庇った時に、大狐に右腕を奪われる大怪我を負っていて、その場にうずくまってしまいます。
「み、光栄……おばさん……そ、そんな! 僕はおばさんにこんなことするつもりは!」
親友の絶叫で少年の憎悪の炎は、一気に吹き消されてしまいました。
少年はよろよろと親友に近づこうとします。
ですが、少年の怒りは霧散しても、ここには自分の憎悪の権化がいることを、彼は失念してしまったのです。
『ケエエエエーーンッ!!』
この場に、まだ動いている葛葉家の人間の姿を発見した大狐は、目玉を真っ赤に光らせます。
「あっ! だ、だめだ! 止めてッ! その子は違うんだッ!」
少年は叫びますが……彼の中にあった願い。『葛葉家の全てを壊したい』という憎悪(ゆめ)は、彼が思っている以上に強く、真っ直ぐなものでした。
『ケエエエエエエエーーッ!!』
大狐は一気に光栄に向かってとびかかります。
その声で母親の亡骸に顔を埋めていた光栄は、ようやく涙に濡れた顔をあげました。
「あっ」
光栄の最期の声は、酷くあっけないものでした。
その表情を、少年は一生忘れないでしょう。
哀しみと絶望、そして極度の混乱状態に置いて、光栄は最期に少年に問うていました。
『どうして優しいお前が、こんな親友の俺にこんなことをするのか?』と……。
ですが、光栄が答えを得る機会は二度と訪れませんでした。
大狐の牙によって、光栄の身体は一瞬のうちに、ただの肉片に変えられてしまったからです。
「光栄……そんな。そんなぁああああああぁぁーーッ!! 光栄ぃぃぃぃーーッ!!」
少年は膝をつき、声の限り親友の名を叫びました。ですが、彼の声に応える者は誰も居ません。
(僕が……僕が殺してしまったッ! どんな時でも励ましてくれた親友をッ! 親友のお母さんをッ! この僕がッ!)
光栄親子だけではありません。少年はこの屋敷にいるほとんどの人間の命を奪いました。その中には今まで見たこともない使用人もいたはずです。
でも少年は一方的に自分の力を押し付け、相手を蹂躙しました。
(……これじゃ、僕はおばあちゃんと同じだ!)
少年はようやく自分が犯した罪に気がついたのです。
「う、ううううう……」
大狐は、しばらくの間、血の海の中で涙する自分の主人の姿をじっと見つめていましたが、やがて再び低い唸り声を上げ出します。
「……どうしたの?」
どうやら、体制を整え直したらしい、葛葉家の人々がこちらへ向かってくるようです。
どれだけの人数で向かってきても、どんなに強い武器を手にしても、大狐は彼らを襤褸雑巾のように引き裂いてしまうでしょう。また大狐もそれを望んでいるようでした。
ですが少年の心からは既に復讐の炎は消えていたのです。
「もういい! もういいんだ! 誰も傷つけなくていいッ!」
少年の言葉にも大狐は反応を示しません。なおも低く唸り声を上げています。
「もういいんだよッ! お願い、僕の話を聞いてッ! 君は、僕のホンネなんだろう!?」
大狐は今にも飛び出して行きそうです。
少年は懐からお母さんのマフラーを取り出し、大狐の毛に巻き付けました。なんとか大狐を止めようと必死だったのです。
そして大狐の身体に顔を埋めると、ぽろぽろと涙を零しました。
悲しかったからでも、悔しかったからでも、葛葉家の人が憎かったからでもありません。大狐に対して、申し訳なかったからです。
「……ごめんね。僕は怒りに任せて、君にこんな酷いことをさせちゃった。自分が汚れるんじゃなくて、君を汚して自分だけ逃げていた……本当にごめん」
少年はマフラーごと大狐をぎゅっと抱きしめます。
「でもいいんだ……もうこんなこと、しなくていいんだよ。本当は君が、誰かを傷つけることなんて望んでいないことは、僕が一番良く分かっている……僕は君のホンネなんだから」
すると、大狐の身体に変化が起きました。
今までは荒ぶる神として、破壊と絶望を撒き散らしていた身体が柔らかな光を発し始めます。
そしてみるみるうちに大狐の巨大な身体は縮んでいったのです。
「これは……?」
やがて驚く少年の前で、大狐は空に浮かぶ満月の光を掬い取ったような黄金色の髪と、神秘的な紫の瞳をした少年と同じ年くらいの男の子に変化しました。
どうやら彼の心は生まれたての赤ん坊と同じようで、自分が何をしていたのか? どうしてここにいるのか? ということが何一つ分かっていないようです。
真っ白な心を持った男の子を、血で汚れた少年は優しく抱きしめました。
「……ごめんね。君に辛いことをさせて」
そこへ大怪我で気を失っていたお父さんが意識を取り戻し、少年たちの元へやってきました。
「これは……お前のホンネ、あの大狐なのか?」
「うん。僕がお願いしたら、男の子になったんだ……もう、誰も傷つけてほしくなかったから」
「そうか……」
先ほどまで少年の『願い』は確かに『憎悪』であり『復讐』でした。よってすべてを壊す大狐がホンネとして顕現したのですが……復讐の炎が消え去った今、ホンネもまた姿を変えるのは道理です。では、少年の今の『願い』とは一体何なのでしょうか?
「お父さん……ごめんなさい。僕のせいで、腕が」
「……お父さんは大丈夫だ。それよりもお父さんの方こそ、謝らなくっちゃだな。助けにくるのがこんなに遅くなって済まなかった……さあ、早くこの屋敷を出よう! 今ならこの混乱で警備も機能していない!」
お父さんは少年に左手を差し出します。
少年は一瞬、お父さんの手を取ろうとしましたが、すぐにひっこめて首を横に振りました。
「どうした? 早くしないと……今の状況を逃せば、脱出は不可能に近いんだぞ!?」
「僕は行かない……行けないよ。ここに残る」
「何を言っているんだ!?」
「お父さん、僕はとんでもないことをしちゃったんだ。一杯物を壊した。沢山の人を殺した……親友の光栄とおばさんも殺しちゃったんだ! 僕は許されない。お父さんとは一緒に行けない」
「……確かにお前は、酷いことをした。だがこれはお前の責任ではない!」
「ううん……僕がいけないんだ。僕はお父さんに
『力』について教えてもらっていたのに、それを守れなかった悪い子なんだ」
かつて少年は力の使い方、その意味を何度も何度もお父さんに教えてもらっていました。
「『……力というのは、人を護ることも傷つけることもできる。そして人は力に簡単に溺れるものだ。そうならぬよう、しっかり制御できるようにならないといけない』……力を持っている人は出来ることも多いけど、護らなくちゃいけないことも沢山あったんだね。僕はそのことをちっとも分かっていなかった悪い子だ。だから、ちゃんと罪は償わなくちゃ……」
「……お前」
お父さんは泣きながらも悲壮な己の決意を語る少年にそれ以上、何も言えませんでした。
そうこうしているうちに周囲が騒がしくなってきます。いよいよ葛葉家の生き残りや、外部からの応援が近づいてきたのです。
「お父さん。僕の代わりにこの子を連れていって」
少年はきょとんとした様子の金色の男の子をお父さんに引き渡します。
「このホンネを?」
「うん。僕はもう、ここから逃げられない。でもこの子は自由だ。そして僕の代わりに僕が過ごしたかった日常をこの子に過ごして欲しいんだ」
少年はお母さんのマフラーをしっかりと男の子の首に巻き付けてあげました。
「……これは大事なマフラーだから、大切にしてね。僕には妹がいるんだ。『空』っていって、とっても可愛い子なんだよ。君もお父さんと空と一緒に仲良くしてね」
男の子は首のマフラーをくすぐったそうにしていましたが、やがて小さくうなずきました。
「ありがとう。君は、今日みたいな悪い力に捕らわれないで。自分の力を全て司るような存在になってね……『ツカサ』」
「『ツカサ』……?」
男の子は初めて口を聞きました。それを見た少年は穏やかに笑います。
「そう、君の名前は『ツカサ』だよ。君は僕のホンネ。もう一人の自分。心からの願いなんだ……どうか、誰よりも幸せになって。ツカサ」
「――居たぞッ! 狐の子はこっちだ!」
追手はすぐそこまで来ているようです。
「いけない! ……お父さん! 早くツカサを連れて逃げて!」
「ダメだ! やっぱり何としてでもお前も連れていく! ……私は亡くなった母さんにも、家で待っている空にも、必ずお前を連れて帰ると約束したんだ!」
大怪我を負い血の気がすっかり失せていても、お父さんの決意の表情は変わりませんでした。
「お前だって、空に会いたいだろう? お父さんとまた、一緒に川へ遊びに行きたいだろう?」
「うん……」
「だったら! さあ!」
お父さんは痛みに震えながらも少年に向かって手を必死に伸ばしますが、無理矢理少年を引っ張っていくまでの力はないようでした。
そして少年は決してお父さんの手を握ろうとはしません。
「お前の罪は私が背負う! だから……また家族一緒に暮らそう!」
「そんな生活に戻れたら夢みたいに嬉しいよ。でも、僕の夢はここで終わりなんだ。夢から覚めたら、ちゃんと自分の起こした現実を見つめなきゃいけない……僕の幸せな夢は、これからツカサが叶えてくれるんだ」
少年はお父さんとツカサに微笑みます。それは決別の笑みでした。
「……お父さん! ツカサを連れて、もう行って!」
もはや追手の姿は目で確認できるようになっていました。
それでもお父さんは、なおも懸命に少年を連れていこうと説得しました。
ですが、実はこの時のお父さんは気力で立っている状態で、1人で逃げるのも厳しい状態だったのです。
ましてや少年とツカサ、両方を連れて逃げるなど不可能であるということは、彼自身が1番よく分かっていることでした。
『ここで自分が逃げなければ、これから先、少年を救うことは決して出来ない』……お父さんは悲しい決断を迫られました。それを少年が後押しするように言います。
「お父さん! ここでお父さんが捕まったら、家で待ってる空はどうなっちゃうの!? あの子まで葛葉家に捕まるようなことは絶対にさせないで! お願い!」
「っ!」
お父さんは血が滲むほど唇を噛みしめ、少年の代わりにツカサの手を握りました。
「いつか必ずお前を助けに来るッ! どうかそれまで無事でいてくれッ!」
お父さんに手を引かれたツカサは、自分の身に何が起こっているのかも分かっていないようでしたが、それでももう1人の自分に向かって一生懸命手を伸ばしていました。
「――『銀』ッ!!」
ツカサに名前を呼ばれた少年は、心の底から笑みを浮かべました。
(これでもう、思い残すことは何もない。
僕は……これでいいんだ)
――少年はそれからおばあちゃんに捕らえられ、今度は葛葉家の若君としてではなく、卑しい狐の子として座敷牢に閉じ込められてしまいました。
そしてそれからずっと、家族もいなく、友達もいないまま、ただ自分の持つ力だけを搾取される日々が始まるのでした。
めでたくなし、めでたくなし。
――全てを知って、全てを失った夜、あの日も今日と同じような満月だった。
全てを凍てつかせるような美しい月の光を浴びて、僕はもう1人の僕に想いを馳せる。
(ツカサ……君は今頃何をしているだろうか?)
かつて神話では、パンドラという女性が
『決して開けてはいけない』と言われた箱を開けたため、世にあらゆる災厄が飛び出したという。だが箱の底には最後『希望』だけが残ったらしい。
……僕はまさにパンドラの箱だ。己の憎悪を世に放ち、その結果多くの人を傷つけた。
そして最後に生まれたツカサは僕の希望そのものだ。
(ツカサ……この永遠に等しい孤独の中で、君だけが僕の希望なんだ……君がこの同じ空の下で幸せでいることだけが僕の闇を照らすささやかな灯りなんだ)
でもパンドラの神話と僕は、ある1点で決定的に異なる。僕は自分の希望すら解き放ったのだ。
今、ここでこうしている僕は空っぽの箱、葛葉一族のための伽藍の堂だ。
僕は大奥様に言われるまま、ここに囚われ、言ノ葉の力を振るい続けている。
ここ数年で大奥様の地位、そして葛葉家の名声は随分と高い物になったと聞く。 もっとも、そのために僕という装置があるのだから、当然のことだが。
この身は人々の願いを叶える万能の装置。だけどこの身が叶える願いは何もない……。
伽藍の堂のこの心は、自分に群がる欲も、嫉妬も、怨嗟の声も全てを受け入れていく。
僕は何も望まない……僕の望みはツカサに預けたのだから。
座敷牢に閉じ込められる間でもない。僕は自分の内に広がる巨大な虚(うろ)にあの日からずっと囚われているのだ。
何も望まない代わりに、僕の中の虚はどんどんと深く、大きくなっていく……だが僕はこの虚に抗うつもりはない。
この虚に全てが飲まれた時こそ、僕は苦悩も悲しみも無くなるときだと信じている。
そしてその時は案外近いのではないだろうか? 大奥様は僕を『お狐様』として正式に世間にお披露目する機会を設けるつもりらしい。
であれば、僕の中には今まで以上に沢山の人の欲望が詰め込まれていくだろう。
そして僕の虚も、より一層広がっていくのは間違いない。
僕は『その時』を迎える際、何を考えるのだろうか?
できれば穏やかな終焉を望みたいところだが、罪にまみれた僕には、それは許されないだろう。
この身に巣食うは卑しい獣の魂。
この心は人の願いを叶える伽藍堂。
次期葛葉家当主にして神なる狐の名を継ぐ者『葛葉 銀』は最後まで罪を贖い続けると決めたのだ……。
「これでいいんだ」
~了~